造化弄人

 先年他界した私の義父は書と酒を愛した。書は篆刻を良くした。定年を待たずに会社をやめ、後半生はプロの篆刻家として生きた。彼の比較的若い頃の作品の中に「造化弄人」と印された篆刻がある。「あれを下さい」と私はねだったが、なかなか首を縦にふらなかった。私が教授になって仙台から大阪に移った頃、額縁にいれたそれをわざわざ届けてくれた。

 造化、人を弄ぶ。本来の意味は人生の皮肉とか歴史の偶然とかいうことだろうが、私はアインシュタインの有名な言葉、"Subtle is the Lord, but malicious He is not.(自然の秘密は巧妙に隠されているが、神は意地悪でそうしたのではない)"を思い出していたのだ。これは自然科学の研究にぴったりの言葉だと思い、私はその額を大学の自分の部屋に飾った。出典を聞いておかなかったのが悔やまれる。

 さまざまな物理的計測技術が進歩したお陰で、物質科学に関する知識が飛躍的に増大した。原子レベルで物質を操作することも可能になった。物質科学の中心が、物の本性をミクロなレベルで探ることから、その特性を利用してさまざまな機能を発現させるという目的指向の研究に移りつつある。物性物理に関するかぎり、物理学と工学の境界は限りなく曖昧になったと言っていいだろう。こういう機能探究型の研究には、多額の研究資金が投下される。研究者の数も多いし競争も激しい。

 最先端の実験装置を駆使して得られた知識をもとに、新物質を合成し機能を追求する。学界の関連情報はインターネットを通じて瞬時に手に入る。「物質設計」という言葉が軽く口をついて出て来る。さて、そうなると何でも思い通りにできるような気がしてくる。わざわざ苦労してサンプルを作り、しんどい実験をしないでも、結果は予想出来てしまう(ような気がする)。全ての書は読まれたり。ここからデータ捏造まで、ただの一歩である。

 もちろん、これは私の想像に過ぎないし極端な話だ。しかし、史上空前の捏造事件と呼ばれたベル研の事件では、ヤン・ヘンドリック・シェーンは誤りを認めた後も「自分の出した結果は、いずれ他の研究者によって再現されるだろう」と言い張ったという。つまり、理想的なサンプルで理想的な実験をすれば、結果は分っているということである。

 頻発する論文捏造の原因がいろいろ取りざたされている。激しい資金獲得競争とか、学界で生き残るための個人レベルでの成果主義の行き過ぎとかが原因に挙げられる。それもあろうが、根底には自然に対する侮蔑があるのではないだろうか?

 人間の注意力の及ぶ範囲などは狭いものだ。分っているような気がしているだけで、実は何も分っていなかった、ということはいくらもある。研究の現場でモノと取り組んでいるまともな研究者なら、誰でもそれを感じている。

 「学界の常識」がひっくり返る時がある。自然に弄ばれていると感じる瞬間だ。それは驚きではあるが、少なくとも人間に弄ばれるよりは精神衛生上も遥かによろしい。こういうことは、確実なデータの積み重ねの上でしか起きない。データ捏造をする人は、ニヒリズムの罠に自分から嵌まっているのだ。

                        (Mar. 2007)

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