谷中、根津、池之端界隈

 関西に住んでいる旧知のKさんから、東京に出てきていると連絡があり、久しぶりに会うことになった。連休でもあり天気もよいので、のんびり街を歩きながら話すことにして、日暮里の駅で待ち合わせた。

 京浜東北線は、このあたりでは武蔵野台地と下町の境界(崖線)に沿って走っている。日暮里駅北口の改札を山の手の側に出ると、そこが谷中である。Kさんと私は、まず駅近くの朝倉彫塑館を見物することにした。

           朝倉彫塑館[1]

 ここは長いこと修復工事をしていて見物できなかったが、最近ようやく工事が終わり、一般公開されたのである。私がまだ東京で暮らしていたころ(つまり大昔)、二三度見学したことがある。それほど広い邸宅ではないが、彫刻家朝倉文夫が隅々まで考え抜いて造らせた建物なので面白い。朝倉文夫(1883-1964)は明治・大正・昭和にわたって日本の彫塑界をリードしてきた人で、生涯に500体以上の人物彫塑を残したと言われている。この建物は、住居、アトリエ、教場、作品展示場などとしての複数の機能を果たした。屋上には菜園まである。

 一階に書斎がある。天井の高い洋間で、壁一面がその天井までの高さの作り付けの書棚になっている。ガラス戸の中に、古い書籍がぎっしり詰まっている。一番上の段などは、特別製の脚立に乗らないと手が届かないだろう。

 Kさんは
「昔は芸術家も研究者も『学者』だったんですね」
と感心している。私は富岡鉄斎のことを思い出した。鉄斎の住居には
「万巻の書を読まずんば吾が室に入るべからず」
と書いた額が掲げられていたそうである。鉄斎は画家および書家に分類されるのだろうが、とてもその枠には収まりきらない。昔は、こういう「巨人」と呼ぶしかない人達がいたのである。

 外に出て、「夕焼けだんだん」から谷中銀座の方に下って行った。最近、谷中・根津・千駄木周辺「谷根千」の下町見物に人気が出て、今日も結構な人通りである。

 このあたりの地形が実に面白い。谷中墓地、寛永寺、東京藝大から上野公園に至る高台が尾根のように続く。その西側が根津・千駄木の低地になっていて、不忍通りが走っている。さらにその西側が再び高台となり、向丘、東大(旧加賀藩邸)がある。実はそのさらに西側がまた下り坂になっている。要するに尾根筋と谷筋がうねうねといくつも並行して走っているのだ。そこに江戸・明治以来の古い町並みがある。

          根津神社

 こういう地形は大阪にはない。私は大阪のようなノッペリして高低差のない土地が苦手で、かえって息がつまるような気がする。しかし、ただ高低差があればそれでいいというものでもない。たとえば田園都市線周辺の新興住宅地は、どこも丘陵を切り開いて宅地にしたので、坂道だらけでほとんど平らな土地というものがない。この沿線の街は若い人達には大人気だそうだが、私に言わせれば「文化」がない。要するに無意味な高低差だ。

 根津や千駄木周辺は私の高等学校(都立小石川高校)の学区域内だったので、このあたりには、高校時代の友人が今も住んでいる。子供のころ、東大の三四郎池で遊んでいた、という奴もいた。夏目漱石の「三四郎」には、この辺の地名が多く出てきて懐かしいところだ。

 不忍通り沿いに歩いて、根津神社に参拝。残念ながら七五三のシーズンには少し遅かったようで、着物姿の子供連れのご婦人には会えなかった。

                           旧岩崎邸[2]

 私たちは、さらに下って池之端まで歩き、旧岩崎邸を見学した。往時の岩崎邸は現在の3倍もある広大な庭園と建築群から成っていたのだが、今、そこには集合住宅と国の施設(関東産業経済局と建築資料館)が建っている。岩崎邸洋館の2階ベランダから見渡すと、その建物が視野を遮って、実によろしくない。どうして広い庭園と明治期の建築群をそのまま保存できなかったのだろうか。どうせケチな役人がやったことだろう、と私はいつも腹を立てている。

 最後に不忍池を回り上野に出て夕暮れのアメ横を歩き、酒場に入ってビールで乾杯。どうも日暮里から上野までKさんを連れまわしてしまったようだ。

[1] http://www.taitocity.net/taito/asakura/
[2] http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html

 



                                        (Nov. 2015)

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