ネアンデルタール人と矢車菊  

ネアンデルタール人の墓から矢車菊の花粉が見つかったという報告は、私の心を少し優しくする。

   

 五月に亡くなった弟の遺骨は、しばらく自宅の祭壇にとどめ置かれていたが、妻のFは八王子郊外の墓苑に墓所を定めた。
「お彼岸までには納骨したいと思います」
とFの言っていたとおり、秋の彼岸前に納骨式が行われた。

 弟は手術の麻酔から覚めるときに無呼吸状態に陥り、誰にも気づかれずに集中治療室に放置された。度重なる病院側との話し合いにも関わらず、放置された事情も、その時間の長さも、結局は明らかにはされなかった。重度の低酸素脳症によるダメージは回復不能である。しかしFは夫の回復を信じて、自宅での介護を続けた。過去十年以上にわたり、弟は眠り続けているように私には見えたが、Fによれば夫の耳は聞こえているのだという。Fは、ときどき介護タクシーを借り上げて、夫を温泉に連れて行ったり、夫の友人たちの協力を得てプールに通って泳がせたりもしていた。

 五月のある日、私が仕事部屋にいると私の妻が弟の容態が急変したと駆け込んできた。弟の家は隣家である。私が行くと、すでに医師と看護師らが到着して、臨終のベッドを囲んでいた。 握った弟の手は、まだ暖かかった。納得のいく肉親の死など有りえないにしても、弟の受けた理不尽な痛苦と死は受け入れることができない。

   

 納骨の日は良く晴れていた。Fの手配してくれた大型のハイヤーで、私と妻はFと その三男坊とともに八王子市外の墓苑に向かった。駐車場と管理棟に接して、会食などのできる施設があり、そこから見下ろす南斜面に整然と区画された広大な墓地が広がっている。桜並木で囲まれているので、花時には公園のようになるだろう。

 弟のための新しい墓碑の前に、参列者が集まり始めている。親族と親戚のほか、参列者は弟の生前の親しい友人の方々だけである。小石川のお寺から来ていただいた坊さんの読経で納骨の儀式が始まった。

 納骨の後、精進落しの会食まで少し時間が空いたので、あたりを散歩することにした。妻とFの実兄であるO氏も同行した。O氏の家はこの近くで、その墓もこの墓苑の中にあるという。O氏に案内されてその墓に向かった。

 私はO氏夫妻の一人娘だったKが、数年前に急逝したことを思い出した。私が覚えているKは、はるか昔の、まだ利発そうな少女だった頃の面影だ。名前の中に「契り」の文字があるように、両親の深い愛情を受けて育っているのだろうと思った。その後の噂話で、Kが結婚して離婚したこと、いまはジャーナリズムの世界で働いていることなどを聞いていた。そしてある日、Fから彼女の姪の突然の訃報を聞いたのだ。仕事が一段落したねぎらいに、自宅に同僚を招いてパーティを開いている最中に倒れたのだという。

 Kの墓は真新しかった。少し変わった形をしている。弟が元気だったころ、夏にはよく山梨県の忍野に家を借り、家族で滞在してテニスや山歩きなどをしていた。Kも呼ばれて遊びに行くことがあったという。O氏は、その時に全員で撮った写真を金属プレートに焼いて、その墓に貼ったのだと言った。 輝いていた夏の日。たしかにそれらしきものが貼ってあるが、私にはよく見えなかった。  

 O氏は寡黙な人である。私には、Fがなぜこの墓苑を自分たち家族の墓所として選んだのか、少しわかったような気がした。 私たちは黙ってお齋の会場に戻っていった。

 

                                  (Dec. 2018)

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