「藁が真綿になる話」

 「STAP騒動」を見ていて、最強の詐欺師とは、自分の嘘を自ら信じ込んでしまうタイプだという説を思い出した。そういえば寺田寅彦の随筆にそれに類した話があった筈だと思って、手元にある岩波書店刊「寺田寅彦全集」(1961年第1刷発行)を調べてみたら、第4巻の「路傍の草」の中にある「六 藁が真綿になる話」がそれだった。ただし、私が最初に読んだのは岩波文庫の「寺田寅彦随筆集(小宮豊隆編)」の方で、こちらは第2巻におさめられている。今は青空文庫からもダウンロードして読める。

 とても面白いし短い文章なので、以下、青空文庫から全文コピペしておく(出典を明らかにしているのでコピペ許してもらえるだろう)。とにかく私は「1パーセントでも可能性があったら、再現実験をしてみる価値がある」と理研CDBセンター長が真顔で言っていたので仰天したのである

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六 藁が真綿になる話


 藁にある薬品を加えて煮るだけでこれを真綿に変ずる方法を発明したと称して、若干の資本家たちに金を出させた人がある。ところがそれが詐偽だという事になって検挙され、警視庁のお役人たちの前で「実験」をやって見せる事になった。半日とか煮てパルプのようなものができた。翌朝になったら真綿になるはずのがとうとうならなくて詐偽だと決定した。こんな話が新聞に出ていたそうである。新聞記事の事だから事がらの真相はよくわからない。ただこれに似た事があったらしい。

 こういう現象は古今東西を問わずよくある事である。何かしらうまい神秘的な金もうけはないかと思って捜している資本家の前に、その要求に応じて出現するものである。悪魔でも呼び出さない人の前にはそう無作法には現われない。

 欺くほうもあまりよくはないが、欺かれるほうもこの現象の第一原因としての責任はある。もし現代の科学を一通り心得た大岡越前守がこの事件を裁くとしたら、だまされたほうも譴責ぐらいは受けそうな気がする。

 しかしそんな事は自分の問題ではない。ただちょっと考えてみたくなる事が一つある。

 警視庁で実験をやり始め、やりつつある間のその人の頭の中にどんな考えが動いていたかという事である。たとえそれまではパルプと真綿をすりかえる手品をやっていたに相違なくとも、その時には、やっているうちに、もしかするとほんとうにパルプが真綿に変わるかもしれないという不可思議な心持ちを、みずからつとめて鼓舞しつつ、ビーカーの中をかき回していたのではないかという疑いである。

 やっているうちに立ち会い役人の目を盗んですりかえようと思ったのだというのは最も常識的な解釈で、それを否定する事はむつかしい。しかしただそれだけであったかどうかが問題である。

 うそもしょっちゅうついているとおしまいには自分でもそれを「信じる」ようになるというのは、よく知られた現象である。いろいろな「奇蹟」たとえば千里眼透視術などをやる人でも、影にかくれた助手の存在を忘れて、ほんとうに自分が奇蹟を行なっているような気のする瞬間があリ、それが高じると、自分ひとりでもそれができるような気になる瞬間もありうるものらしい。幾年もつづけてジグスとマギーをかいている画家は、おしまいには生きたジグスとマギーの存在を信じて疑わなくなるだろうが、それと似た頭の迷いが起こりはしないか。

 ビーカーのパルプが真綿に変わるまでの途中の肝心の経路も考え方によっては、ほんのちょっとした事のように思われるかもしれない。そのちょっとのところに目をふさいで見れば、確かに藁が真綿になるに相違ないのである。山の芋が鰻になったりする「事実」も同様である。だんだんにこの「事実」に慣れて来ると、おしまいには、そのいわゆる「ちょっとした」経路を省略しても同じ事になりそうな気がするものではあるまいか。頭の冷静な場合にはそんな事はないとしても、切迫した事態のもとに頭が少し不透明になった場合には存外ありそうな事だと思う。

 この事件は見方によっては頭のよくない茶目のいたずらとも見られる。しかしまた犯罪心理学者の研究資料にもなれば、科学的認識論の先生が因果律の講釈をする時の材料にもなりうる。

 因果をつなぐかぎの輪はただ一つ欠けても縁が切れる。この明白な事をわれわれはつい忘れたりごまかしたりする事がある。われわれの過失の多くはここから来る。鉄道や飛行機の故障などもこういう種類に属するのが多い。綱紀紊乱風俗廃頽などという現象も多くはこれに似た事に帰因する。うっかりこの下手な手品師を笑われない。

                              (大正十四年十一月、中央公論)

                         「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店

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                                        (Aug. 2014)

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