古代ギリシャ人はどのようにして太陽の大きさを測ったか?

 いま、毎晩寝る前に読んでいる本は「宇宙創成」(サイモン・シン著 青木薫訳 新潮文庫)である。夏の頃に一度通読して今は2度目だ。原題はBig Bang。

 これは天文学と宇宙物理学の歴史に関する優れた解説書だ。この種の自然科学の大衆向け解説書にありがちなセンセーショナルだが不正確な記述とは無縁である。このまま、大学初年級での一般物理学の教科書にも使えそうだ。


人間が、手の届かない天体と宇宙の本質を、ただ観測し推論するだけでどのようにして解き明かしてきたかを、壮大な歴史として描いている。
それはへたな推理小説よりはるかにスリリングで面白い。当たり前の話だが。

 私は、古代ギリシャ人(エラトステネス)が夏至の日の太陽の高さに関する考察から、地球の半径をほぼ正確に計算していたということは、以前から知っていた。
しかし、その数値と日食や月食の観察とを結びつけて太陽までの距離と太陽の大きさまではじき出していたことは、この本を読んで初めて知った。紀元前3世紀のことだ。

 それ以来、宇宙に関する人間の知識(常識)は、幾度も書き換えられてきた。プトレマイオスの天動説から地動説への転換はそんなビッグイベントの一つだが、本書ではそれを単なる教科書的事実としてではなくて、「何がそうさせたか」を、当時の技術と知識の最先端から生き生きと描いている。

 マックス・プランクは「重要な科学上の革新が、人々が考えを徐々に変えることで達成されることはまれであり、多くは、対立する古い陣営の人々が死んで、次の世代がとって代わることによって起こる」という意味のことを言っているそうだ。ちなみにガリレオの死んだ年(1642年)にニュートンが生まれていることは覚えておくといいだろう。ニュートンの世代にとって地球が太陽の周囲を回っていることはもはや「当然の事実」だったろうが、彼ら二人はこんなに近い時代を生きたのだ。

 自然科学の他の分野と同じく、天文学でも新たな技術の導入が、新たな展開につながった。望遠鏡の発明、写真技術の応用、分光学の発展、電波望遠鏡の導入などが、その都度、私たちの宇宙を見る視野を拡大してきた。現在ではガンマ線からニュートリノまで、ありとあらゆる信号を観測の窓として宇宙を探索していることはご存知だろう。人間は知りたいことを知るために、役に立つものは何でも使ってきたのだ。

 恒星たちは、あまりに遠方にあるので、一年を通じて動かないように見える。恒星の年周視差が見られないことは、地動説にとって泣き所の一つだった。望遠鏡観測によって恒星の年周視差を初めて測定したのはベッセルである。対象は白鳥座61番星で、視差から算定された太陽系からの距離は11光年。

  これはこれで素晴らしい業績だが、もっと遠くの星や星雲までの距離の測定にはこの方法は使えない。

 私には長いこと、何万光年も離れた星までの距離を、天文学者がどうやって算出しているのか不思議だった。天体物理の研究室にいる若い友人に尋ねても、すぐには答えられない。こういうあまりにも基本的な疑問というのはどの分野でも案外、即答するのが難しいようだ。

 星の絶対的な明るさ(輝度)と星までの距離(の2乗)と見かけの明るさの間には比例・反比例の関係がある。暗く見える星が遠くにあるとは限らない。つまり絶対的な輝度が分からないと、その星までの距離は決まらない。逆もまたしかり。

 このモヤモヤするような状態を突破して、星までの距離の絶対値決定を可能にしたのはセファイド型とよばれる変光星の一種に関するある発見である。リービットという女性研究者が、セファイドの変光周期と絶対的な輝度との間には比例関係があることに気づいた。これはすごい発見だ。

 セファイドを含む近くの天体は三角測量の方法で距離の絶対値が分かるから、遠方の星雲中にセファイド型変光星を見つければ、それを目印に、みかけの明るさから星雲までの距離が分かるわけだ。

  リービットは耳の不自由な女性で、写真乾板の解析のために雇われていた天文学の素人である。のちに、ノーベル賞委員会がリービットをノーベル賞候補者としてノミネートし、所在を探したが、その時にはすでに癌のため亡くなっていたということだ。

 アンドロメダ星雲の中にセファイドを発見し、星雲までの距離を初めて測定したのはハッブルである。
その結果は驚くべきもので、アンドロメダ星雲は、それまで考えられていたように、われわれの銀河の一部ではなくて、はるか遠方にある別の島宇宙(銀河)であるというものだった。この発見により、この宇宙にはわれわれの銀河と同等の無数の銀河が存在することが初めて認識されたのだ。
 
 
ハッブルの業績はこれにとどまらない。

 星のスペクトルに見られる暗線の赤方変移からいわゆる「ハッブルの法則」を導いていることは、よくご存知だろう。ハッブルの法則は、宇宙が過去のある瞬間に一点から始まったとするBig Bang説の根拠の一つである。ハッブルこそ光学望遠鏡時代の最大の巨人と言ってよいと思うが、ノーベル賞は逸している。

 もう一人の巨人フレッド・ホイルもノーベル賞をもらっていない。ホイルはヘリウムから炭素に至る核融合過程に炭素原子核の未知の励起共鳴準位が存在して、重要な役割を演じていることを指摘し、そのエネルギー値を予言した。ノーベル賞を受賞したのは、ホイルに説得されて、しぶしぶ実験をしたウイリー・ファウラーのほうである。測定結果は、ホイルの予言どおり、基底状態の7.65MeV上に、確かに励起準位が存在することを示していた。ドンピシャリ!これぞ理論の勝利!

  宇宙における元素の創成過程で、この隘路をクリアしなければ、炭素および炭素より重い元素は存在できなかったことになるのだ。ホイルの思考過程は、後の「人間原理」に近い。
「私は宇宙に存在している。私は主に炭素から出来ている。よって何らかの方法で、炭素が生成されたに違いない」
 
 ホイルを受賞対象から外したのはノーベル賞委員会の失態である。

 ホイルは豪快で個性の強い人だったようで、大学当局と衝突してケンブリッジ大学をやめ、後半生は放浪の科学者として過ごしたそうである。Big Bangという用語は、定常宇宙論者だったホイルが「Big Bang説」を否定する文脈で初めて揶揄的に使ったのだ。

 セファイドを手がかりとした遠方の星雲までの距離の測定値と、暗線のドップラー効果から求められる後退速度とから宇宙の年齢が分かる。困ったことに、この方法で求めた宇宙の年齢は、岩石の放射線測定から算出されていた地球の年齢よりも若かった。これが頭痛の種というやつだ。

  この困難を解決したのはワルター・バーデである。バーデは、距離の目印とされたセファイドに二つの種族があること、ハッブルがアンドロメダ星雲までの距離を決めたときに用いたセファイドと、遠方の銀河の目印に用いたセファイドとが、異なる種族に属し、輝度と変光周期との関係が異なることに気がついた。
これで宇宙の大きさすなわち年齢が一気に2倍に伸び、問題が解決した。ハッブルの算定は定量的には間違っていたのだが、皆、その権威に盲従して疑うことをしなかったのだ。

 ビッグ・バンに関するもっともドラマチックな物語は、宇宙背景放射の発見かもしれない。

 エコー衛星との通信用に開発されたマイクロ波アンテナを、電波望遠鏡として転用するために改造していたベル研究所のペンジアスとウイルソンは正体不明の雑音源に悩んでいた。ペンジアスがMITの友人に相談したところ、しばらくしてその友人が興奮して電話をかけてきた。

 
ロバート・ディッケ、ジェイムズ・ピーブルスらのプリンストン大学の宇宙論研究者が、宇宙創成の名残としてマイクロ波領域の熱雑音が宇宙全体に満ちているという論文を送ってきた、というのである。

  ペンジアスはすぐにディッケに電話をかけ、自分たちがそれを見つけたと告げた。この時、プリンストンのグループは、自分たち自身でその背景放射を観測するべく、ランチタイムに作戦会議の最中だったという。

  すべてがあっという間に終わってしまった。これこそセレンディピティの典型だろう。
 
 ディッケらは全く知らなかったが、同じことはすでに1940年代にジョージ・ガモフ、ラルフ・アルファー、ロバート・ハーマンらが予言していたのである。宇宙背景放射発見の賞賛の嵐の中で、彼ら3人の先駆的業績は無視された。後になって、ガモフらの業績は認知されたが、発見から14年後の1978年に宇宙背景放射の発見に対してノーベル賞がペンジアスとウイルソンに与えられたとき、ガモフは既に亡く、ディッケも受賞を逃した。

  実は、ペンジアス、ウイルソンの見つけたと同じマイクロ波帯の雑音を、1950年代にウクライナとフランスの研究者も観測していたと思われるデータがあるそうだ。

 
彼らと、ペンジアス、ウイルソンとの違いは、あくまでも精度にこだわる粘り強さと、なによりも適切な理論家の助言が得られたかどうかの差だろう。よい理論家を近くに持つことは大切だ!

  ちなみに、物性物理の研究者にとって、ディッケは「ディッケの超放射」で有名だが、これはディッケ自身にとってはささいな仕事だったようだ。

 科学の歴史も勝者の歴史になりがちだ。

  教科書を読むと、人類はまるで少数の天才に導かれて一直線に現在の知識に向かって進んで来たかのような錯覚を覚える。本当は、人間は暗闇の中を手探りで進んでいるのだ。机の角に膝をぶつけたり、電気スタンドをひっくり返したりしながら。

  ある時の勝者はいずれ敗者になり、敗者も逆転勝利する。研究者同士の争いや、同じ研究グループ内での葛藤もある。サイモン・シンのこの本は、暗闇の中での手探り前進を、同時代感覚で再現してくれるところが貴重である。

 最後に、ギリシャ人がどのようにして太陽の大きさを推定したか、考えてみてはいかが?

                                        (Dec. 2009)

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