あれはトライだった

 1905年、ニュージーランドのラグビーチーム オールブラックスが英国に遠征した。31連勝した最後の試合は対ウエールズ戦で、0−3で負けていた。ノーサイド寸前、オールブラックスのフルバック ディーンズが敵のタックルを引きずりながらゴールラインに飛び込んだ。トライで逆転、と思われたが、審判の判定は無情にもインゴールノックオンだった。これでオールブラックスは完全制覇を逃した。あきらかな誤審にも思えたが、ディーンズは試合中も試合後も、主審の判定については一言も語らなかった。

 その数年後、欧州大戦が始まり、ディーンズも応召したが前線で瀕死の重傷を負ってしまう。そして戦友に看取られながら息を引き取る直前に
「あれは間違いなくトライだった」
とひとことだけ言ったという。

 これは審判の判定には絶対服従というラグビーの厳しさを物語ってもいるし、男の潔さ(と悔しさ)を示すエピソードのようにも思われる。私の好きなラグビー伝説のひとつだ。

 誰にでも、思い出しては一人恥じ入るような、あるいはその時のみじめさを思い出すような人生の記憶というものがあるだろう。わたしにもいやというほどある。(私にはありません、という人はこの先、読む必要はないからね。)

 それでも同時に、案外、悪くはなかったなぁ、と思えるような記憶も探せばきっとあるはずだ。困っていた誰かをこっそり助けてやったこと、言い訳と取られるのが嫌で誤解されるにまかせたこと、弱いものいじめの仲間になることをきっぱり断ったこと・・・。あの時、お前はいいやつだった、と心の中だけで思い出していればいい。

 そして死ぬ前に、その秘密をひとつだけ漏らしても、きっと許してもらえるだろう。

 

                                      (Jan. 2012)

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