不倶戴天の敵

隣り合う国同士で仲が良いということは滅多にない。世界を見渡せば、むしろ不倶戴天の敵のようにいがみ合っている例のほうが多いだろう。諍いのもとになるのは、多くは領土問題である。だから、私たちに望みうる最良の隣国関係とは、国際法と条約に則り、互いに淡々冷然と問題を処理していくことだけだ。

 ヨーロッパは国土面積の大きさで言ったら中小規模の国々が、狭い土地にひしめき合って存在している場所である。ハンガリーなどは、2、3時間のバスの旅で北から南へ縦断できてしまうほどの小さな国だ。ヨーロッパの長い歴史は戦乱の歴史だった。とくに20世紀に起きた二つの大戦が、大きな傷跡を残した。それゆえ、彼らは知恵を出し合い、妥協を重ねて、戦争だけは避けるための仕組みを作り上げてきた。EU周辺国での民族紛争や、移民流入とテロの問題を除けば、いまヨーロッパはかってないほど平和で安定していると言えるだろう。

 地球上の他の地域―アフリカや中東やアジア―では、そうはいかない。隣国との紛争を抱えていない国のほうが珍しいほどだ。アゼルバイジャンとアルメニアは旧ソビエト連邦から独立した隣国同士であるが、その間柄はいたって険悪である。アゼルバイジャン国内には、アルメニア系の人の多く住む飛び地ナゴルノ・カラバフがあり、その帰属と支配権をめぐって紛争を繰り返してきた。直近では、2016年にも武力衝突があり、双方で数十人の犠牲者を出している。

 アゼルバイジャンは政治的にも文化的にもトルコに近いムスリムの国であり、アルメニアはキリスト教国である。アゼルバイジャンはバクー油田を持つ比較的金持ちの国であり、アルメニアは相対的に貧しい。両国の確執の歴史は古く、オスマントルコがこのあたりを支配したころから始まっているようだ。アルメニアはオスマントルコによる大虐殺があったと主張しているし、アゼルバイジャンも、近年の紛争時にアルメニア人による住民虐殺があったと言っている。こういう民族紛争は、ほとんど半永久的に解決不能である。


 二年半ほど前、私は外国出張の途中、南フランスの地方都市エクス・アン・プロヴァンスに一泊した。エクス・アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)とはフランス語で「プロヴァンスの水」という意味で、実際、市内にはいたるところに噴水や泉があり、静かな美しい街だった。私は街中を歩き回って朝の散歩を楽しんだ。

 ところが、市の中心部の広場で気になるものを見た。それは人の背の高さよりは低い新しい石碑で、横に英語で翻訳らしきものが書いてある。読むとそれはアルメニアによるアゼルバイジャンに対する告発文であることが分かった。大虐殺云々の言葉もあったようだ。

 私はひどく違和感を感じて、すぐにその場を離れてしまった。私はナゴルノ・カラバフ紛争に関して、アゼルバイジャンとアルメニアのどちらの肩を持つものでもないが、無関係の国の地方都市の広場に、こういうものを設置する神経が不快に感じられた。これは「告げ口外交」ではないのか?

 その頃、韓国による「告げ口外交」にうんざりしていたのは私だけではないだろう。世界中のいたるところに「慰安婦」像が建てられそうな勢いだった。それを思い出して嫌な感じがしたのだ。もっとも、この石碑には、あの「慰安婦」像のようなグロテスクなオブジェがついていないだけましではあったが。

 日本人の多くは、なぜ日本がこれほどまでに韓国の悪意にさらされねばならないのか理解できず、困惑しているのではないだろうか?特にこの一年ほどの、かの国の変わり様―日本に対する敵意の暴走―には驚かされる。まるで日本を不倶戴天の敵と考えているかのようだ。インターネット上には、その理由をいろいろと説明してくれる記事も見られるが要するに理解不能。

 他国の国民の心情を忖度することは、不毛の試みであるからやめよう。代わりに、その国の政治家とくに大統領の言説と行動を、そのまま受け止めればよいのだ。すると見えてくるのは、「韓国は北朝鮮と一緒になりたい」という一点だけである。自衛隊の哨戒機が標的追尾用のレーダーを照射されたのは、不都合な動きを察知されそうになったからだろう。なぜ韓国の駆逐艦が日本近海まで来て、北朝鮮の「遭難漁船」を「救助」していたのか?なぜ第一報で報じられた「死亡者1名」の情報が消えてしまったのか?

 一つになるとしたら、核兵器を持った北朝鮮と持たない韓国では、格が違うから、北朝鮮の主導で合併することになるのは目に見えている。もし文大統領の思惑が実現すれば、韓国は自由社会から離脱して、個人崇拝の専制国家に身を転じた史上初の例となるだろう。


 私は冗談を言っているわけではない。たった50年前には、ソ連や北朝鮮をこの世に実現された理想の社会と考え、日本をその方向に導いて行こうとした人々が現実にいたのだ、たまたま政治権力をもたなかっただけで。それが現代に現れたとしても、何の不思議もない。                                     

                                        (Feb. 2019)

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