推理小説は可能か?

○推理小説は可能か?

 私はときどき、表題のような論文が書けるのではないかと夢想することがある。ここでいう推理小説とは、謎解きを中心とする「本格推理小説」のことである。ハードボイルドとか、今、流行している軽いタッチの「日常生活の謎」もの(北村薫のような)を含めた推理小説一般なら可能に決まっている。

 論文を書くためには、問題をきちんと設定しなければいけない。つまり「本格推理」が満たすべき条件の列挙が必要だ。これをやっている作家はすでにいるが、私の条件は以下のとおり。

(1)ある時点で、すべてのデータが提示されていること。
 これは当たり前だ。最後になって実はふたごの兄弟がいて、それが真犯人、なんてのは困る。さらに、データは明示的に示されていなければならない。

(2)犯人の行動には、すべて合理的な動機があること。
 殺人には深刻な動機がなくてはいけない。「ほんの気紛れでした」なんてのはダメ。「意外な動機」というジャンルがあって、結構面白い作品が多い。ところで合理的な動機が必要なのは、何も犯行そのものだけではなくて、犯人の全ての行動においてでなくてはならない。読者は、犯人は合理的な判断のできる、理性をもった人間であることを前提にして読んでいるのだから当然だ。
 実は、ここで多くの作品がつまづく。よほど良くできた作品でも、読み終えてしばらくしてから「ありゃ、何か変だな」と気づく。たとえば「アリバイ・トリック」。犯人が飛んだり跳ねたりして偽のアリバイ作りをするが、実は何にもしないで知らんふりしていた方が良かったのに、という話が多い。松本清張の「点と線」では、九州で殺人が行われていた日に、容疑者には北海道に行っていたという壮大なアリバイがあるのだが、話の冒頭で語られるのは、例の東京駅13番線プラットフォームから15番線プラットフォームへの4分間の見通しである。どちらも犯人の作為だがやり過ぎだ。これじゃかえって疑われるぜ。しかし私は2回も読んだ。
 「語り手が犯人」というレッドカードすれすれの作品もある。クリスティーも書いている。データは全部、示してあるから文句はないだろうというが、作品そのものが何のために書かれたのかが説明できない。これも不合格。

(3)犯人が確定すること。すなわち、解の一意性。
 これも相当きびしい条件だ。いちいち真犯人は別にいることを指摘してくれてる「金田一耕助さん あなたの推理は間違いだらけ」(佐藤友之)という本まであるくらいだ。作者としては、「さあ分ったでしょ。お終いお終い」と筆力で押し切るしかない。

 「この3条件を全てクリアする本格推理は存在不可能である」という一種のno-go定理が証明できるのではないか、というのが私の第1感である。

 糸と滑車を使ったからくりだとか、一人二役とか二人一役(5人4役もある)とか、トランクのすり替えによる死体消失だとか、ほとんどの本格推理のトリックは出尽くしたようだ。話の中程で、作者が登場して「全てのデータは揃った」と読者に挑戦状を投げかける(エラリー・クイン)ような本格推理の牧歌的時代はとうに終わったのだろう。本格推理は、パロディとしてしか存在できないのかも知れない。



○こんな推理はいやだ

 作者の勘違いもしくは無知から、妙ちきりんな推理を展開してくれる探偵もいる。有名な例はシャーロック・ホームズの「自転車のわだち」に関する意見である(「プライオリ校」)。泥地の上についたわだちをみて、その自転車がどちらに向かって走って行ったか分かる、とホームズは言う。
「後輪の方に体重がかかるから、後輪が深く沈む。そして、後輪が前輪のわだちの上を走るから、学校へ向かったのではなく、学校から出て行ったと分かるのさ」
 そんなことは絶対ありません!ホームズさんの勘違いですって。

 最近の例を一つ。相手はプロなんだから名前をあげてもいいだろう。倉知淳作「空中散歩者の最期」から。細かい話は省くが、要するに、路上で墜死体が発見された。近くのビルから落ちたと思われたが、そのビルは10メートルの高さしかなく、一方、死体の状況からは20メートル以上の高さから落下したものと判断される。墜死体の検視結果から、そこまで断定できるのか、という気もするが、まあ話の都合上認めておこう。そのビルの向こう側には、高さ15メートルのビルはあるが、20メートルを越える高さのビルはない。さて、この謎は?

 「おまえさんたち、こんなことも分からないのかね」
という探偵の推理は以下のとおりである。聞いてびっくりするなよ。

 「その近くに20メートル以上の高さの物が無いなら、どこかからこの20メートルという距離を稼ぎ出せばいいだろう。それしか方法はないだろう。何か書く物持ってるか?」
 死んだ男は泥棒で、高さ15メートルのビルの屋上から、高さ10メートルのビルの屋上にロープを張って滑り移ろうとしたのだが、仲間の裏切りで勢いあまって通り越し、地面に叩き付けられて死んだのである。15メートルのビルの屋上から、地面に落ちた位置までの直線を引くと、長さは20数メートルある。(つまり直角3角形の斜辺は他の2辺より長い、というやつですね。)さよう、この20数メートルが落下の距離なのである。
「おまえさんたちの粗雑な頭でも、もう分っただろ」

 あの・・・なに言ってるかわかりますか?

 本には、御丁寧に直角3角形の図までついている。作者は、このアイディアを思いついたとき、まだ誰も使っていない新しいトリックを発見したぞ、と得意になったかも知れないが、そりゃ誰も使いませんわ。もう一度、高校の物理勉強してくれ。



○愛読書

 要するに、固いことを言わずに作者の手腕に乗せられて、意外な展開を楽しめれば、それでよいのだ。そのためには推理小説といえども小説として面白くなければいけない。そこで主人公のキャラクター作りや作者の語り口が大切になってくる。有名な作品だが、主人公(探偵役)がいやなタイプなので好きになれないものもある。個人的な好みの問題だが、例えば「隅の老人」(オルツイ)、「9マイルは遠すぎる」(ケメルマン)など。主人公に魅力がないのだ。

 シリーズを揃えて再読している作者をあげるとこんなところになる。

「アガサ・クリスティーの全作品」
これは何しろ数が多いから玉石混交だが、一番よいのは、数が多いために前に読んだことを忘れてしまって、何度でも楽しめるところ。クリスティー作品には「物的証拠」というものが出てこない。会話とインタビューによって事件が再構成され、真実が明らかになってくるという筋を辿るものが多い。これは実はハードボイルドの手法でもある。

「ブラウン神父シリーズ」(チェスタトン)
何度でも楽しめるお伽話。しかしアイディアの宝庫でもある。木の葉は森に隠せ。死体は?
私は「古書の呪い」に見事にかつがれた。よく読むと直接の証言というものは一つも無いのですね。

「半七捕物帳」(岡本綺堂)
祖父の話を聞いているような語り物の楽しさ。幕末の江戸の生活の懐かしさ。

「私立探偵アルバート・サムスンシリーズ」(マイクル・リューイン)
一人称形式の語り口の面白さ。主人公のキャラクター作りのうまさ。サムスンは暴力が苦手で、やられてばかりいるが決して調査を諦めない。一応、モーションはかけるが実は女性に潔癖。離婚歴があり、子持ちの恋人がいる。依頼人の持ってくる些細な問題の調査から、過去の残忍な犯罪があぶり出されてくる(「A型の女」)。
リーロイ・パウダー物もよい。翻訳も素晴らしい(ハヤカワ文庫)。リューインは作品の数が非常に少ない作家だが、よい作品を書けば十分、食っていけるのだろう。

「モース主任警部シリーズ」(コリン・デクスター)
50代半ばで後頭部が薄くなり始めている。趣味はワグナーとクロスワードパズル。書類の綴りの間違いにうるさい。オクスフォードの学生時代には研究者志望だったが、不幸な恋愛で挫折した。以来、独身。テムズ・バレイ署では天才と思われている。華麗な推理を展開するが、ほとんど間違っている。七転八倒してなんとか解決。家宅捜索で発見したエロ本を捜査そっちのけで読んだりする。女性にはもてるが何故か女運悪し(自殺してしまったり真犯人だったり)。
モース主任警部は、酒の飲み過ぎで(パブの代金は部下のルイス部長刑事が払うことが多い)身体を壊し、最後には心臓疾患で死んでしまう。一時は、英国でシャーロック・ホームズを抜いて、最も人気のある推理小説の主人公に選ばれている。
何度読んでも、複雑すぎて筋を忘れてしまうが、また読みたくなる不思議なシリーズだ。

 


                                   (Dec. 2007)

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