プレアデス星団

 それまでに書いた、ただ一編の論文が認められて、北国の一都市にある大学の物理教室に職を得て赴任したとき、私はすでに結婚していて、一歳になる息子までいた。

 移り住んだ家は、私と入れ違いに東京へ転任したN先生の住んでいた借家だった。小高い丘のてっぺんにある鳥の巣のような一軒家だ。N先生に家を見せてもらったとき、庭一面に菫の花が咲いていた。それを見て、即座にここに住もうと決めた。天井裏でねずみが騒ぎ、冬には雨戸の隙間から雪が舞い込むような古い家だった。

 生まれて初めて東京を離れ、母親のもとを離れて暮らす地方都市での生活は、何もかもが新鮮だった。夏には、下の沢の方からシュレーゲル青蛙の鳴き声が聞こえてきた。私達は庭のフサスグリの実を採ってジャムを作り、残りは焼酎に漬けてルビーのような色の果実酒とした。秋になると、丘のあちこちに萩の花が咲き乱れ、草むらの中から心細いような邯鄲の鳴き声が聞こえた。
「当地では空気も水もcrispです」
私は東京にいる恩師のT先生への手紙に書いた。

 私が20代の初めだった時に父が死んだ。その頃から始まった精神的放浪の時代が、終わりに近づいていることを私は感じた。それは決して手に入れることの叶わぬものを求めてあがき、不可能性の証明のために費やされた年月だった。人は何かを断念することを、生きて学ばねばならない。

「ねえ、来てごらん。きれいな星よ」
夜の庭から妻の声がした。庭に出てみると、妻と息子が双眼鏡を手に、星を見ている。もう冬も間近い頃なので、二人とも着ぶくれするほど着込んでいる。
「ホシ」
と息子が夜空を指差す。なるほど、見事な星空だ。私は双眼鏡を目にあてて、私の星を探した。それはすぐに見つかった。小さな羽子板の形に、星達の小集団が、双眼鏡の視野の中で瞬いている。それは、以前と変わらぬ遠方で、前よりももっと美しさを増して輝いている。

 私のかたわらには、若い妻と幼い息子がいた。私は、この惑星で、もうしばらく暮らしてみよう、と思った。


                                 
(Dec. 2000)

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