理論家の職業病

 残念なことだが、実験研究者にはどうしても研究にともなう疾病の被害が皆無ではない。レーザーを扱っている研究者は、ともすれば眼を痛めることがあるようだ。もちろん、実験には十分注意を払っているはずなので、直接、レーザー光を浴びることはなくとも、散乱光やいわゆる迷光が眼に飛び込んできて、長年の間には視力に影響を及ぼすこともある。私の知人のあるベテランの光物性実験家は、
 「私の網膜の一部には視野の欠けた所があります」
と言っていた。彼は歴戦の勇士である。また、別の知人は、先輩研究者から、
 「たとえレーザーが発振していないと分かっている場合でも、装置の中を覗き込むときは、必ず手で片方の目をふさぐように」
と教えられたそうだ。その理由は、万一の間違いでレーザー光を浴びても、片目だけは守られるから、ということだそうだ。これは半分冗談だと信じたい。

 もっと壮絶な例は、初期の放射能研究者の場合である。キュリー夫人は、放射性元素ラジウムとポロニウムの発見およびその研究により、ノーベル物理学賞と化学賞を受賞したが、当時はまだ放射線被爆の影響についてよく知られていなかったこともあり、放射性物質の扱いはルーズだった。試料を手でつまんだり、服のポケットに入れて持ち歩いたりしていたという。彼女は66歳で病死するが、死因は長年の放射線被爆による再生不良性貧血(または白血病)と考えられる。キュリー夫人の残した論文原稿やノートからは、今も危険な量の放射線が検知され、閲覧には防護服着用が必須だという。彼女の研究室で共同研究をした研究者複数も白血病などで死亡している。

 これらの例を実験研究者の職業病と言ってしまっては語弊が大きいだろうか。

 ところで最近、私は右手の肘から手首にかけての痛みに悩まされている。利き腕なので、日常生活にも少し差支えるほどだ。この痛みの原因には思い当たるふしがある。いま、ある実験の解析のために理論作りをしている。いつものように、実験データ(これがとても面白い)を眺め、結晶の中で何が起きているのか想像し、モデルを立てて計算をする。それほど難しい理論では無いのだが、細かくて間違いやすい手計算を大量にやらなければならない。干渉効果が重要なので、各項の符号を間違えると結果がまったく違ってくる。計算用紙にシャーペンで式を書きまくり、変形し、間違えたところを消しゴムで消すという作業の繰り返し。どうやらそれで腱鞘炎になったようだ。

 「最近、式の変形をしていて腱鞘炎になりました」
と言ってみたが、理論家の職業病と認めてくれる人はいない。


                                        (Nov. 2015)

目次に戻る