詩仙堂にて

 一乗寺のだらだら坂が急な登り坂に変わるところに、詩仙堂の入り口がある。ここを訪れるのは何年ぶりだろう。今日は妻と二人づれだ。妻は詩仙堂に来るのは、これが初めてである。

 いつ来ても懐かしい感じのする座敷に入り、二人並んで縁に腰をおろす。まだ昼前なので、比較的すいている。目の前には、サツキの植え込みで縁取られた庭と白い侘助の老木。この庭は小さいけれど洛北の空に向かって開かれている。春先のきまぐれな空模様が、庭木に明るい日差しを投げかけたかと思うと、にわかに翳り、前庭の土の上にハラハラと雨を降らせる。

 にぎやかにおしゃべりしていた四、五人の集団が出てゆくと、急に静かになった。座敷に残ったのは、私達夫婦と、もうひと組の男女だけだ。私達と反対側の隅で、同じように畳の上に並んで腰をおろし、庭を眺めている。女は淡い藤色のスーツ姿で、コートを畳んで脇においている。男は黒っぽいコートを着たまま、黙って膝をかかえている。男はまだ若く、女の方が少し年上のように見える。

 私が初めてここに来たのは、大学院生の頃だった。大学は荒れていた。私は研究など何もしていなかった。夏休みに友人の下宿(何とも不思議な間取りの下宿屋!)に転がりこんで、来る日も来る日も京都の街を歩き回った。なぜあんなに憑かれたように歩き回ったりしたのだろう。ある日、油照りの坂道を登り、私は詩仙堂を発見した。それ以来、詩仙堂は私にとって特別な存在になった。いつも変わらず、そこに在ってくれる何物か・・・。

 石川丈山はただの文人ではない。もとは屈強の三河武士だった。若くして力量を認められ、近侍として家康に仕えた。大阪夏の陣に参戦したとき、一人敵陣に赴き、敵将を討ち取って帰ってきた。これを抜け駆けの軍令違反として家康に咎められ蟄居を命ぜられる。以後、武士をやめ、徳川家を離れる。洛北に詩仙堂を築いて隠棲した後は、長い晩年をそこで過ごし、二度と加茂川を渡ることはなかったという。生涯娶らず。

 私は、大阪夏の陣で、討ち取った敵将の首を提げて味方の陣地に戻ってきた丈山の姿に、何か尋常でないものを感じる。その時またそれ以後、彼が何を見たのか誰にも分からない。

 石川丈山は謎めいた人物だが、詩仙堂には不可解なところは何もない。いつまで座っていても飽きることがなかった。庭のどこかに仕掛けられた添水の音だけが、規則正しく響いてくる。壁に「仰臥を禁ずる」と書いた貼り紙がはってある。してみると、ここではやはり、誰でも思いきり寝そべりたくなるのだろう。
「どう?いいでしょ?」
私は妻に尋ねた。
「うん」
「月を見ながら酒を飲んだらいいだろうな」
しかし、世の細君一般と同様に、妻は酒のみに対する同情心の乏しい人である。

 あちらに座った男女が、小声で何かを話している。あまり元気の出る話ではないようだ。二人はやがて立ち上がり、備え付けのサンダルを履いて、庭へ出ていった。私達も庭を散歩することにした。

 椿の花が盛りを過ぎようとしていた。マンサクと紅梅は満開だった。妻は露地に生えた猩々袴と片栗の花を喜んだ。私は漠然と歳月ということを考えていた。

 庭の奥の小道を、ひっそりと歩いてくる先程の二人づれに出会った。男は不精ヒゲを生やしているが、どことなく繊細な感じのする青年だ。女性のクリーム色のコートが、早春の庭によく映えていた。美しい人である。私達は、互いに軽く会釈を交わしてすれ違った。

 私は詩仙堂からの帰りがけに、この二人の姿をもう一度見かけた。詩仙堂から外の道路へ至る路地は、両側の樹木に光を遮られ、トンネルのような感じになっている。私の前方を、あの二人が出口に向かって歩いていた。門の手前まで来ると、二つの影が急に立ち止まり、ひとつに重なった。切なさが伝わってくるような一瞬の抱擁。私は歩みを止め、遅れて後からやって来る妻を待った。

                                 (Apr. 2001)

目次へ戻る