センチメンタル・ジャーニー

 私は東京の北区で生まれた。33歳まで東京で暮らし、それから宮城県仙台市で17年、大阪堺市で16年暮らした。仙台や堺の人には言っちゃ悪いが、すでに33年間、東京を離れてドサ回りを続けていることになる。人生のちょうど半分だ。仙台も堺もよい町だが、東京が懐かしくないと言えばうそになる。


 東京23区は武蔵野台地(山の手)と沖積平野の低地(下町)とにまたがる。そのために都心に坂道が多く、それが大阪などと比べると、はるかに陰翳に富んだ東京の景観を形作っている。上野あたりから赤羽まで京浜東北線に乗ってみれば、高さ10メートルほどの台地の端に沿って電車が走っているのが分かるだろう。

 北区はその名のとおり、東京23区の北の端にある。下町とも山の手ともつかない雑駁な住宅地が広がっている。私が育ったのは十条という町である。ここに母方の祖父母が、浅草から越してきたのは関東大震災の少し前だったようだ。当時は王子村と言った。引越しの理由が「東京も空気が悪くなってきたので、郊外に移ろう」ということだったそうだ。

 私は、祖父母に愛され、その頃はまだ独身だった母の兄弟たちにも可愛がられて、ほとんど祖父母の家で育った。近くに自分の家はあったのだが、学校が終わると祖父母の家に帰り、ランドセルを投げ出して一日中、近所の仲間たちと遊び呆けた。夕食もたいてい祖父母の家で食べ、自分の家に帰るのは夜、寝るときだけという生活だった。周りにはまだ畑や神社の木立が残っていた。私の右手の親指と右足の膝小僧には、その頃、自分のナイフで誤ってつけた傷跡が、勲章みたいに残っている。子供は誰でも自分のナイフを持っていた。

 

 妻の実家は、同じ東京だが大森にある。東京の北と南の端っこ同士で、どちらがより都会的かということでよく論争になる。実に実にくだらない争いだが、妻の最後の決め台詞は
「十条にはデパートがない」
というものである。たしかに十条にはデパートはおろか、大きなスーパーも量販店もございません。そのかわりに、「十条銀座」というウナギの寝床のような長い商店街がある。これは私の子供の頃から、つまり60年以上も昔から、ほとんどその形態を変えていない由緒のある商店街である。

「十条には十条銀座がある。十条銀座は砂町銀座、戸越銀座と並んで『東京三大銀座』の一つに数えられているんだぞ」
と頑張っても、妻は鼻先でフフンとせせら笑うばかりである。

 

 母方の親族は皆、長命だったが、一人ずつこの世を去っていった。優しくて音楽好きだった叔父も、ダンディで男気のあった伯父もこの世に居なくなり、私は淋しくて仕方がない。私は自分自身に懐古趣味を固く禁じている人間だが、近頃は、帰京すると家の近辺を、昔の面影を求めて徘徊することが多くなった。(徘徊老人か?)そんなとき、心の中では
  Gonna take a sentimental journey
とドリス・デイの歌うスタンダード・ナンバーが鳴っている。ちなみにこれは失恋の歌ではなくて、放浪の末に生まれ故郷へ帰る歌である。

 昔通った小学校と中学校へも、ときどき足を運んでみる。私は祖父母の家のある隣の学区の小中学校へ越境入学していたので、どちらも自宅からは遠いのである。商店街をそれると、古い住宅地の中を細い路地が網の目のように広がっている。小中学生の頃、私は毎日、違う道を選んで探検気分で通学していた。このあたりには、今でも私のかっての学校友達が幾人も暮らしているはずだ。

 その路地を再訪してみると、やはりかなり様子が違っている。昔ながらの古家はなくなり、集合住宅に建て替えられている。目印だった大きなけやきの木も無くなっている。小学校の親友だった白井の六ちゃんの木工工芸店の家も、お坊ちゃんの転校生だった鹿島君の家も、もうどこだか分からなくなっている。土地勘が戻らない。少し気が滅入る。

 十条銀座の入り口を歩いていたら
 「あらカヤヌマ君」
と自転車の女性に呼び止められた。顔を見たら、すぐに小学校の同級生だったヒトミさんだと分かった。ヒトミさんは、ひらりと自転車から飛び降りて私に笑いかけた。昔とぜんぜん変わってない。ヒトミさんと少し立ち話をして、私はまた元気になった。
 

                                        (May 2011)

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