Sense of Wonder

 レオン・レーダーマン (Leon Lederman) は、長くFermi Labを率いたアメリカの素粒子物理学者で、2種類のニュートリノが存在することを発見した業績により、1988年にノーベル物理学賞を受賞した。最近、レーダーマンが書いたエッセイを読んで面白かったので一部を翻訳して紹介しておこう。原典はCern Courier Vol.49, No.8, October 2009にある。原題はLife in Physics and the Crucial Sense of Wonderである。

 研究の意味が分からなくなったり、研究が少しも楽しく感じられなくなることが誰にでもあるだろう。そういう人のために元気の出る話をしたいのだ。これは自分のためでもある。

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Life in Physics and the Crucial Sense of Wonder, Leon Lederman

 1950年の頃、コロンビア大学の大学院生だったとき、私はアインシュタインに会うというまれな経験をした。私と友人の院生は、アインシュタインがプリンストンの自宅で食事をするために通る道端で、ベンチに座っているようにと教えられた。助手を伴ってやって来るアインシュタインを見て、私たちはベンチから飛び起きた。助手は、学生たちと話してみる気はあるかとアインシュタインに聞いた。

「ああ」と教授は答え、私の友人に
「君は何をやってるのかね(Vot are you doing?)」
と尋ねた。

「僕は量子論に関する学位論文を書いています」

「アハッ」アインシュタインは言った。「時間の無駄じゃ(A vaste of time!)。それで、君の方は?」

私はもう少し自信があった。「僕はπ中間子の性質を実験で調べています」

「π中間子、π中間子!アハッ。電子は分かっとるのかね?なぜ、π中間子なんぞにかかずらうんじゃ?(Vee don't understand de electron! Vy bother mit pion?) まあ、幸運を祈るよ、お若いの」

というわけで、30秒もしないうちにあの偉大な物理学者は二人の冴えた若手の物理研究者を粉砕してしまった。しかし私たちはうわの空だった。ともかく私たちは、史上最も偉大な科学者に会ったのだ!

 

 この出来事より数年前に、私はアメリカ陸軍を退役していた。陸軍では、アイゼンハワー元帥の仕事---つまり第2次世界大戦---に協力して3年ほど欧州各地を従軍転戦した。私たちの部隊が乗った船は、大揺れの航海を無事終えてバッテリー埠頭に入港した。私はコロンビア大学までタクシーに乗り、秋学期からの物理大学院生として登録を済ませた。
 
 私は物理の研究を再開するということで熱意に燃えていた。が、同時に、ほとんどものを考えるということの無かった3年間の陸軍勤務で消耗しきってもいた。事態はすぐに悲惨なことになってきた。私は簡単な方程式も、勉強のやり方も忘れていた。そして最もいけないことにカレッジの物理の授業で感じた喜びをぜんぜん感じられなくなっていた。一日中、猛烈に勉強してもダメだった。私は博士資格試験を2回も落第し、もう大学院をやめようかと考えた。

 私はピューピン物理棟の10階にある研究室に所属していた。そこでは霧箱(cloud chamber)を作るという課題を与えられていた。これはガラスとプラスチックで出来た12インチの円筒形の容器で、窒素ガスとアルコール蒸気が入れられていた。核子がこの容器に入って来ると、ガスの原子を励起し、それがアルコールの蒸気を液滴に変えて、その飛跡が目に見えるようになる。そこで写真を撮れば、ちょうどジェット旅客機の飛行機雲のようにその記録がとれるのである。しかし、私の霧箱は、いくらやってもぜんぜん飛跡が現れず、ただ白い煙のような雲が出るばかりだった。この失敗が、試験に失敗したことと、喜びの感じられない講義とあいまって、私をみじめな気持ちにさせた。私はもう一度、博士資格試験を受け、それから2週間だけ研究を続けてみようと決めた。

 

 試験の後、気分はほとんど良くならなかったが、私は研究室に戻った。そこで一人の掃除人が、イタリアオペラの曲を歌いながら、電線がのた打ち回っている床をモップで拭いているのを見た。私が部屋に入ると、彼はイタリア語で何か叫び、私に握手を求めてきた。

「オーケー。だけど気をつけろよ。その電線には大電流が流れているんだぜ。君のモップがショートさせちまうぞ」と私は言った。彼はぼんやりと私を見つめた。私はむかっ腹を立て、部屋を出てホールでそいつが行ってしまうのを待つことにした。

 ホールには学科主任がいた。「新しく間抜けな掃除人を雇ったものですね」私は言った。

「新しい掃除人だって?おい待てよ。君は研究室にいるあの男のことを言ってるのか?」

「そうです」

「バカ、あれは掃除人なんかじゃない。あれは宇宙線の世界的権威、ジルベルト・ベルナルディーニ教授だ。私は君の研究を見てもらおうと、彼を1年間ここに招聘したんだ」

「なんてこった」私はうめき、ダメージを挽回しようと部屋に突進した。

 

 次第にベルナルディーニと私は意志の疎通が出来るようになった。私はジルベルトのやり方を観察した。たとえば彼が暗い部屋に入るときの習慣がある。スイッチを入れる:明かりが点く。スイッチを切る:消える。入れる:点く。切る:消える。これを5,6回は繰り返す。そのたびに大声で "fantastico!" と叫ぶ。なぜか?彼には簡単な事柄にも驚くことの出来る目覚しい感覚 sense of wonder があるようだった。

 

 さて霧箱の話。

ジルベルト:「真ん中にある針金は何だ (Wat's dat wire in de middle?)]
レオン: 「あれには放射性元素がついている」
ジルベルト:「取り出しなさい (Tayk id oud)」
レオン:「それが飛跡を作るんだ」
ジルベルト:「取り出しなさい (Tayk id oud)」

 そして2,3分後、飛跡が現れた。私の線源は放射能が強すぎたのだ!

 しかし、これは私がベルナルディーニから学んだことの手始めに過ぎなかった。次に私たちは一種のガイガーカウンターを作製した。私たちは機械工作を行い、磨き、きれいなアルゴンガスで洗浄し、オシロスコープを見つめた。すぐに信号が現れた。

 ベルナルディーニは狂喜した。「カウントしてるぞ (Izza counting!)」彼は叫び、体重も身長も私の半分ほどしかないのに、私を抱き上げ、ベルナルディーニ作のsense of wonderの曲に合わせて研究室を踊りまわった。彼は言った:「この宇宙線は何億マイルもの遠くからやってきて、このピューピン物理棟10階にいる私たちにbuonjournoと挨拶しているんだ。素敵じゃないか。こんな小さな粒子がこんな長い旅を! (Izza beautiful! So little particle, so long da trip!)」

 

 こうして、ベルナルディーニによって私は物理への愛と、世界がどんな具合に動いているかという原理の単純さと優美さへの探求心を取り戻して行った。私は研究の世界で立ち直り、最終的には大学院を卒業して大学教師への道を歩み始めた。

 コロンビア大学でのキャリアを始めて数年後のある時、私は夜の実験に当たっていた。それは午前3時のことだった。全ての装置が順調に働いていることを確認した後、突然、あるコンピュータが警告音を鳴らし始めた。私はデータスキャンさせてみた。そして、それがそこにあったのだ。私がそれまでに見た最も美しい飛跡が。私が見たのはミューオンが金属薄膜から入ってきて、10枚の薄板を通り抜けた飛跡だった。ミューオン!唯一つの説明は、ニュートリノがこの飛跡のもとを作ったということだ:ミューオンに付随するニュートリノ!その重大な意味が私に分かりかけてきた。2種類のニュートリノが存在するのだ。これは私たちが教えてきた物理を変えてしまうだろう。これは世界中の新聞の大見出しになるだろう・・・。私の手のひらには汗がにじみ、息をするのも苦しくなってきた。私は装置を全てをチェックしてみた。結果はこの発見の正しさを確証するだけだった。

 午前4時に、私はジルベルトに電話した。彼はちょうどイリノイ大学を訪問中だった。彼の素敵な "fantastico" はアメリカナイズされていた。私の発見を彼に告げたとき、返ってきたのは「くそったれ (Holy Shit!)」という言葉だった。

                                     (Feb. 2010)

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