さくら

 今年もまた桜を見た。桜は咲くときも散るときも人の心を騒がせる。

 暖かな午前中に石神井川沿いを散歩した。石神井川は北区王子の飛鳥山下から遡って、板橋区を通り練馬区の石神井公園まで、20キロ以上の川沿いに桜並木が続いている。一日ではとても歩ける距離ではない。今日は板橋の加賀から、埼京線のガードをくぐり下流へ向かって桜の花の下を歩いた。すでに満開を過ぎ花は散り始めている。川面をのぞくと花筏というより薄紅色の絨緞のように水面を覆った桜の花びらが流れて行く。

 ヒヨドリの群れが、高いところで花を食い散らしている。鶯の声も聞こえる。平日なので私のように変な生活をしている人間や、まともな生活をしている老夫婦がのんびり歩いているだけだ。風も無いのにチラチラと花弁が散り続けている。

 満開の桜に出会うことは毎年でも可能だが、息もできぬほどの桜吹雪の中に立つことは、生涯にそう多くはないだろう。桜は散る時が最も美しい。桜はその一瞬のために、入念に満開の花を咲かせるのではないかと思う。


 

 さまざまのこと思ひ出す桜かな

 有名な芭蕉の句が頭に浮かんだ。自分の記憶では、江戸から故郷の伊賀上野に帰ったときに、もとの主人に呼び出され花の宴で詠んだ句だったはずだ。こういう句を挨拶の句という。

 ところが、家に帰って調べてみたら、私の記憶とはだいぶ様子が違うのだった。

 松尾芭蕉(本名宗房)がかって仕えた主は藤堂良忠である。良忠と芭蕉は主従の関係であると同時に、俳諧の道を学ぶ学友でもあった。ともに二十代の若さだった。藤堂家の下屋敷と芭蕉の実家とは、わずか一町ほどの距離だったという。

 寛文六年、その良忠が自ら催した花の宴の直後に、二十五歳で急死してしまう。亡き主君の野辺の送りを済ませた芭蕉は、脱藩同然に武士を退き俳諧の道に生きる決心をしたようである。芭蕉は二十三歳だった。

 その二十二年後の元禄元年の春、江戸で俳諧改革の旗手として名声を確立していた芭蕉は、亡父の三十三回忌の追善法要のために伊賀上野に帰省する。藤堂家では、良忠の子の良長が跡を継いでいたが、その良長から芭蕉に花の宴への非公式のお召がかかる。「さまざま」の句は、二十二年の歳月をへだてた宴の席での作である。芭蕉にとっては万感の思いが籠っていたであろうことは想像に難くない。

 しかし、ここでちょっと私は引っかかる。この挨拶の句を、芭蕉は誰に贈りたかったのだろうか?良忠の忘れ形見の良長だろうか?しかし良長は二十二年前には、まだ幼い子供だったはずだ。当時を知る人はほかに誰がいただろう。


 午後になって、また桜が見たくなったので、今度は赤羽の西が丘に出かけた。ここは私の家からは谷をはさんで向かい側の高台にあたる。住宅街の一角に、古木ばかりの桜並木がある。私は桜横丁と呼んでいる。

 こちらも満開を少し過ぎ、道一面に花弁が散り敷いていた。住人のおばさんが、家の前の道路に降り積もった桜の花弁を箒で掃いている。今日明日は、東京中が桜まみれになっていると思うと愉快だ。


 桜並木の下で、さっきの疑問を思い返していると、ある妖しい考えがあたまに浮かんだ。元禄の花の宴には、おそらく藩主の生母すなわち良忠の未亡人も臨席していただろう。芭蕉は、「さまざま」の句をひそかに彼女への遠い挨拶の句として贈ったのかも知れない。二十二年前には、三人とも若く未来は輝いていた。良忠夫人にとって、夫と芭蕉の詩人としての才能の差は、微笑ましくも明らかだったかもしれない。二十二年の歳月の後に、同じ桜の下で再会した夫人にこの句を残して、芭蕉はまた孤独な精進の道へと旅立っていった。

 しかし、これはあまりにも近代文学的な解釈だ。どうも桜に酔ってしまったようだ。「さまざま」の句は、詠み人知らずと言ってもよいほどの平明な句だから、それぞれの人がただそれぞれの思いを重ねればいいのだろう。



                                        (April 2016)

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