論文は誰のために書くか?

 大学院生だったころ、T先生とその親友のK先生が話しているのを、かたわらで聞いていたことがある。二人とも理論家である。論文は誰のために書くんだろう、という話になった。T先生が即座に
「それはひとのためだ」
と言うと、K先生はしばらく考えてから
「いや、やっぱり自分のためですよ」
と言った。

 それきり、二人の会話は別の方向に行ってしまった。「ひとのため」「自分のため」というのが、どういう意味だったのか、今なら分かるような気もするが、その時の二人の先生の打ち解けた様子とともに、謎めいた問答として今も記憶に残っている。

 わたしはT先生が
「論文の数は、できるだけ少ないほうがいいですね」
ともらしたのを聞いたこともある。

 別の実験家のK先生は、論文を書いたら最低でも半年間は机の引き出しにしまい込んでおいて、半年後にもう一度読み直し、これでよしとなったら投稿する、という意味のことをおっしゃった。言うまでもなく、K先生のデータに対する研究者の信頼は絶対だった。

 論文を書くということの意味が、現在とはずいぶん違う時代だったのだ。今なら、論文は自分のために書くに決まっているだろう。多くの人にとって論文を書くことは戦うことである。しかし、K先生が「自分のために」と言ったのは、多分、それとは少し意味が違うのだろうとわたしは思う。

 ところでわたしは4年前に大学を定年で退職し、いまは特認教授にしていただいて同じ大学で研究を続けている。大きく変わったのが指導する大学院生も学生も持たなくなったことだ。これはある意味、ありがたいことだ。大学の教師になってからは、学生を指導して2年なり3年なりでちゃんとした研究を論文にさせて、送り出して行くという生活の繰り返しだった。それはそれで楽しくもあったが、正直かなりのストレスにもなっていた。いまはそのストレスからも解放されている。好きな問題だけをやっていればいいというチャンスをいただいたのだ。

 ところがこの2,3年、わたしの年間の論文生産量が減った。その最大の理由は、論文執筆を指導してやらなければいけない学生がいなくなったからだと気づいた。そういう意味で「論文は学生のために(または共同研究者のために)書く」という動機もあったわけだ。いまでも以前と同じペースで問題を考えて、計算もしているつもりだが、最初に持った疑問が解決してしまうと、満足してそれなりにしてしまう悪い癖がついた。投稿して、レフェリーのコメントがついて返ってきた論文を、いくつもほったらかしにしている。レフェリーにも申し訳ない。

 研究者の仕事は、論文を発表して初めて完結する。論文になっていない研究はゼロである。せっかく研究を続行するチャンスをいただいたのに非常に恥ずかしい。わたしはもう一度、院生時代に戻ったつもりで、ハングリーに「自分のために」論文を書かねばいけないと思っている。

 

                                       (Jan. 2012)

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