一夜

 私はいたって現実的かつ散文的な人間で、これまで幽霊を見たり、神秘的体験と呼べるような体験をした事はない。しかし、ただ一度だけ、今でも忘れられない妙な経験をした思い出がある。これはよくある幽霊話の出だしのパターンみたいだが、別に大した話ではない。ただ記憶を確かめるためにお話しするのだ。


 それは私が長いオーバードクター生活の末に、東北大学の物理教室に職を得て赴任したときの話だ。時は5月の半ばだった。その頃、妻は少し厄介な病気にかかって都内のJ大学の付属病院に入院していた。私は一歳半になる息子を母(息子の祖母)に預け、一人だけ先に単身赴任することになった。一家離散である。2ヶ月後に合流できるはずだが、精密検査の結果如何では入院が長引くかも知れなかった。私は、見知らぬ新天地で仕事を始めるという高揚感と、妻の病気に対する懸念とが入り混じった複雑な気持ちでいただろうと思う。

 特急ひばりを降りて仙台駅の改札口を出ると、もう夕暮れだった。仙台の街は暗かった。はるばる白河の関を越えて来たという感が胸に迫ってきた。駅の食堂で夕飯を食べ、大学の本部がある片平までケヤキ並木の通りを歩いていった。正式の着任日は明日だが、大学の配慮で、一晩だけ宿舎を使わせてもらえることになっていた。門のところで守衛に道を尋ね、大学の構内に入った。キャンパスの中は一層暗かった。なにやら古い建物が建っている。

 グラウンドがあり、遠くで人のかたまりが動いていた。ラグビーの練習をしているらしかった。声はまったく聞こえない。薄暗がりの中で、無言で組んずほぐれつしている。本当にラグビーの練習なのかどうかもさだかではない。

 Rene Magritte: L'Empire de Lumieres

 守衛に教えられた方向に歩いて行くと、木立の中にそれらしい建物があった。暗くて様子が分からないが、木造の古い二階屋のようだ。入り口のドアを開けると、中は板敷きの玄関になっていて、横の部屋から管理人らしい若い女が出て来た。この女性が、丸顔のびっくりするような大女だったことを私は覚えている。背が高いのではなくて大きいのだ。スリッパを履いて板の間に上がった。女の出て来た部屋の戸が少し開いていて、中から電燈の明かりが漏れている。中に誰かいるらしい。

 案内された部屋は二階にあった。ギシギシときしむ吹き抜けの階段を登ると、上は階段を囲む踊り場になっており、部屋の入り口のドアがいくつかそこに面している。妙な造りだ。私の父が外出先で吐血して倒れ、かつぎ込まれた池袋の古い病院を思い出した。これが父の死病になったのだ。どうも、その病院によく似ている。

 大きな真鍮の鍵を渡され、部屋の中に入った。部屋の隅にベッドがあり、反対側に黒ずんだ木製の扉がある。隣室に通じているらしい。ドアのノブを握って回してみたが鍵がかかっている。隣室に人がいるような気配はない。

 ベッドに入ったが、なかなか寝つけなかった。ときおり窓が明るくなりザッ、ザッと車の通り過ぎる音がする。大学のキャンパスの中に自動車道路が通っているのだろうか?この宿舎は木立の中にあって、さっきはそんな道路には気付かなかったが・・・。なんだか腑に落ちないことばかりだ。

 その夜、魯迅が私の部屋にやって来た。魯迅は隣室との境の扉から入って来たのだと私は思った。じっと立っている。立っているだけでなく、だんだん私のベッドに近寄ってくる。とうとう枕元までやって来て、私の顔を覗き込んだ。私は魯迅の顔を知らない。だから覗き込んでいる顔を見たら、そこに何があるか知れたものではない、と思ったら怖くてたまらなくなった。魯迅は尊敬しているが、顔は見たくない。ワッと叫んだような気がして目が覚めた。私は暗い中で一人で寝ていた。ときどき窓ガラスが明るくなり、車の通り過ぎる音がした。

 翌朝は、明るく晴れていた。陽の下で見る仙台の町は緑に溢れていた。私はバスで理学部のある青葉山へ向かい、事務室に出頭して辞令を受け取った。こうして私の仙台での生活は始まった。

 妻の病気は、幸いおおごとにならずに済み、一月半ほどして退院した。私は特急ひばりで東京に妻と息子を迎えに行った。


 話はこれだけである。ただ、少し妙なことがある。東北大学に勤務しているあいだ、何度も下の片平キャンパスに行くことがあった。そのたびに、あの一夜を過ごした宿舎を確かめようと、構内を歩いて見るのだが、どうしても見つからないのだ。木立に囲まれた木造の病院のようなあの宿舎。あれはいったい、どこに消えてしまったのだろう?

 私は、あの一夜全体が、本当にあったことではなくて、夢の記憶が現実とごっちゃになってしまったのではないかとも思う。本当は私は着任日に東京から赴任して、直接、青葉山の理学部に出向いたのかもしれない。今はそんな気がしている。すると魯迅が部屋に入って来たのは、夢の中で見た夢だったのだろうか...。

                            (Apr. 2007)


目次にもどる