量子力学の奇妙さ その1

 私は20世紀のはじめに人類が量子力学を発見できたのは奇跡に近い出来事だったと思っている。ニュートン力学にたどり着くには、ガリレイの思考実験のような「日常経験の純化」と微積分学の発見があれば足りたが、量子力学はそうはいかない。激しい思考の飛躍が必要である。人類は量子力学の発見によって、やっと少年期を脱したのではないだろうか?


 最近、ディラックに関する初めての本格的評伝とよべる本の翻訳が出版されたので、買って読んでみた(「量子の海、ディラックの深淵」グレアム・ファーメロ著、吉田三知世訳、早川書房刊。原題はThe Strangest Man)。著者は物理の研究者であり、訳者も物理系の人なので安心して読めるが、何しろ620ページにおよぶ大著であり、相当読み応えがある。  

 ハイゼンベルク、シュレーディンガーと並んで量子力学の創造者のひとりであるディラックは、量子力学そのもと同じほどに奇妙な人物The Strangest Manだった。ここでいうstrange manとはstranger(見慣れぬ異様な人物、よそもの)の語感に近い。この本の最後で、著者は「ディラックは自閉症だったか?」という問いを発し、きわめて慎重な言い回しながら、ほとんどYesに近い断定をしている。ちなみにディラックの肉親は、自殺した兄も含めて全員、奇妙な人物だった。

 


 量子力学は「力学」の部分と「測定の理論」とからなっている。多くの教科書ではこのことが明確に書かれておらず、「力学」の部分にほとんどの紙面が割かれている。要するに波動関数をどうやって計算するか、という技術の話である。大学での講義も同様だ。

 私が物理学科の3回生だったとき、量子力学の講義をされたのはK大先生である。使った教科書はシッフの原書。若い助手が二人、演習の世話をしてくれた。いま思えばみな偉い先生だった!

 講義の中ほどに角運動量の量子化の話がある。数学的にはとても面白いところだが、「量子化軸」というのがよく分からなかった。回転対称性があるのにどうして特定の向きが量子化軸になるのか?それはつまり測定装置が量子化軸を決めているのだが、それをきちんと説明してもらった記憶がない。どうもこの話題には、だれもあまり触れたくないようだった。

 Entanglement(量子もつれ)の話は講義にも教科書にも全く出てこなかった。スピンをもつ二つの電子が、相互作用をしてスピン一重項の状態にいるとする。この電子をそっと引き離して、遠く離れた左と右の容器に貯える。波動関数Ψのスピン成分だけに着目すると
Ψ=1/√2 {|↑,↓> - |↓,↑>}     (1)
となっているだろう。ただし、ケットベクトル|・,・>の左側に書いたのは左の容器の電子スピン、右側に書いたのは右側の容器の電子スピンである。
 ここで左側の容器のスピンの向きを測定してみる。測定した瞬間に重ね合わせの状態だった波動関数は|↑,↓>か|↓,↑>のどちらかに50%の確率で「収縮」するというのが正統派解釈である。したがって、もし左側のスピンが上向きだったら、右側の容器の電子は下向きのスピンを持っていることが確定する。逆もまたしかり。測定というのは、マクロな機器との接触による情報の不可逆的な集約と考えられるから、左の容器内の情報が、瞬時に右の容器内の電子に伝わったように見えて気持ちが悪い。あるいは左の電子に加えた操作が、遠く離れた右の電子に影響を及ぼしたように見える。

 しかし、これだけだと「忘れた手袋」の話との違いがないようにも思える。あなたが外出先で手袋を片方、家に忘れてきたことに気づく。もしポケットにあるのが右手の手袋だと分かると、その瞬間に家の引き出しの中には左手の手袋があることが「確定」する。それとどこが違うのか?

 スピンと手袋の違いは、スピンには量子化軸の自由度があるということだ。測定装置の設定を変えて、スピンの向きを上下(z軸)ではなくて左右(x軸)方向に測定することもできる。スピン波動関数には
|↑>=1/√2{|→>+|←>}
|↓>=1/√2{|→> -|←>}
という関係があるので(註1)、これを(1)式に入れると
Ψ=1/√2 {|→,←>-|←, →>}     (2)
と書くこともできる。したがって、左側の電子のスピンと右側の電子のスピンが、逆方向に観測されるということは変わらない。一方、右手の手袋と左手の手袋の1次結合は、まだ誰も観測したことはない。

 「量子もつれ」のこの性質を利用して、光よりも速く情報を伝えることができるだろうか?それは不可能である。スピンの向きは測定のたびに全くランダムに決まるので、送り手の情報を伝える目的には使えない。しかし、z軸方向にスピンを観測するか、x軸方向に観測するかの選択は、送り手が決定できることなので、それを情報として受け手に伝えられるのではなかろうか?これはよいアイディアだと思えるが(じつは私も一瞬思った)、受け手のほうは、発信者が↑ or ↓で測定したか、← or →で測定したかを決定する方法がない。これはすぐに分かることなので、あなたが物理の学生なら自分で確かめていただきたい。

 スピンの観測が↑ or ↓の設定でなされたか← or →の設定でなされたか、ということは、情報の伝達手段にはならないが、送り手と受け手が「後から」記録をつきあわせて照合できる。量子暗号通信の基本的スキームであるBB84プロトコル(註2)ではこれを利用して鍵乱数の安全な配送を行う。

 ところで量子もつれによっても光より速く情報を伝えることができない、という事実をもって「特殊相対性理論と矛盾しない」と言ってすませている文献も多いが、これは変な話だ。なぜなら、量子力学の測定の理論と特殊相対性理論とは、たがいに独立な理論だからだ。矛盾していないのはハッピーなことではあるが。

 その証拠にシュレーディンガー方程式はあきらかに特殊相対性理論と矛盾する。たとえば無限に高い閉じ込めポテンシャルを持った容器の中に電子を閉じ込めておき、ある瞬間に容器を取り除く。電子はシュレーディンガー方程式にしたがって運動を始めるが、シュレーディンガー方程式は波動方程式なので、任意に短い時間内に有限の距離だけ離れた位置にも、電子を見出す確率が生じるだろう。これは光速度より速く信号を伝えるのに使える!

 シュレーディンガー方程式の中には光速度cが、したがって光円錐の概念が出てこないから、これは当然至極とも言える。この問題はディラック方程式で考えれば解決するはずだと思うが、まだ自分で計算して確かめたことはない。すこしふくらませて学生の卒業研究課題にいかがだろうか?


 ディラックの評伝を読んで、量子力学の奇妙さについて改めて考え書き始めたが、当てもなく始めたのであっと言う間に脱線してしまった。どこが最も「奇妙」かというと、結局、波動関数とは何なのか?測定(観測)というのは何なのか?という点にある。いたずらに神秘めかす必要はないが、ただ計算ができて実験に合えばよいというものでもなかろう。それに、先端技術を駆使した最も微妙な実験になると、プロの研究者でも結論に迷うことがあるのを私は知っている。次回以降、そのあたりのことを書きたいが、「その2」に続くかどうか?

 私も間違ったことを書くかも知れないので、ご指摘いただけると幸いである。また提案した課題にレポートを送っていただくのもうれしいが単位は差し上げられない。

 

(註1)|↑>と|→>はスピンの向きとしては直交しているように思えるが、ヒルベルト空間のベクトルとしては45度の角度で斜交している。スピンの代わりにフォトンの偏光を利用することもできる。

(註2)BennettとBrassardにより1984年に提案されたのでこう呼ばれる。そのままBB エイティフォーと呼べばよいが、最近、私はよくBB フォーティエイトと言い間違いをするので困る。


                                        (Feb. 2013)

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