オレは大バカだった

 今日は日曜日。昼飯にラーメンでも食べようと大学正門前まで行った。大学の近くはラーメン激戦区である。初めての店に入った。若い兄ちゃんと姉ちゃんがやっている。ラーメンはまあいい。頑張れよ。気になったのは壁に貼ってある宣伝ビラの文句。

  オレはバカだった 大バカだった
  仕事に満足していた
  仕事の帰りにコンビニで「マンガ ダーウインの進化論」を読んだ
  ガーン
  天地がひっくり返るほど驚いた
  
知らなかった
  りんごを食べたためじゃなかったんだ

  オレは決心した オレは進化するぞ
  オレのラーメンも進化し続けるぞ

 進化したのはりんごを食べたためじゃなかったと知るのは、人間いくつになっても悪いことじゃない。私も眠れぬ夜に思い出すと、オレは大バカだったと叫んで、恥ずかしさのあまり飛び起きたくなるような思い出はいくらもある。

 どこかに書いたことがあるが、熱力学に「ゲイ・リュサックの実験」というのがあるでしょう。私は長いこと、これをゲイ氏とリュサック氏二人の業績だと信じていた。なにしろ「ジュール・トムソンの実験」と並んで出てきますからね。いつごろ間違いに気づいたかというと・・・少なくともその時、すでに統計熱力学の講義をやっていたことは確かである(冷や汗)。
 そのほかの例では、何万光年も離れた遠くの星や銀河までの距離がどうして分かるのか、かなりの年齢になるまで知らなかった。自動車が道を曲がるときにウインカーがどうして出るのか知らなかった。自動的に出ると思っていたふしがある(サイコガンかよ)。教習所に通って、ドライバーが操作しているのだと知った。大豆と枝豆が同じものであることを知らなかった etc.

 というわけで(どういうわけじゃ)、日頃、心に秘めている疑問で、恥を覚悟で皆様に教えて頂きたいことがある。
 
その1.どうしてお経の日本語訳が無いの?

 日本のお経はわけが分からない。あれは多分、サンスクリット語か何かで書かれていたインドの経典を、昔の中国人が漢語に翻訳し、それを日本的に音読しているのだろう。だからインド人にも中国人にも日本人にも分かるはずがない。私だって般若心経ぐらいなら唱えることができるが、まったく意味不明だ。日本人は、仏教伝来いらい千数百年ものあいだ、ギャーテーギャーテー ハーラーギャーテーと意味の分からないお経を唱えてきたのである。
 キリスト教の聖書も、もとはギリシャ語で書かれていた。民衆は、聖職者の語るわけの分からないギリシャ語の説教を聴かされてきたはずだ。しかし、今から500年ほど前にマルティン・ルターがアイゼナッハのお城に閉じこもってドイツ語に翻訳し、グーテンベルクの印刷術のおかげで、あっという間に広まった。今では世界中の大半の国で、母国語で新・旧約聖書を読むことができる。
 どうして 日本では誰も仏教経典の日本語訳に取り組まなかったのか?それが不思議でならない。

その2.どうして日本では、携帯電話を「見ながら」歩いている人が多いの?

 アメリカやヨーロッパの都市に出かけてみれば気づくが、街頭で携帯電話で話している人は時折見かけるものの、携帯電話を「見ながら」歩いている人は殆どいない。中国と韓国はどうだか知らないが、ケータイを見ながら歩くのは、日本人だけの特別な習性なのではなかろうか?外国人が見たら、あれは相当不思議な光景に映るはずだ。
 昔、小学校の校庭には、よく二宮尊徳の像が飾ってあった。焚き木を背負って、本を読みながら歩いている例の姿である。勤勉励行の像だが、これは日本人の「本好き」も現わしているようだ。今の若い人は、本の代わりにケータイ画面を読んでいるのかしら?
  現代の二宮尊徳像は、焚き木を背負ってケータイを見ながら歩いている。

その3.どうして今 円高?

 これも不思議。日本経済が沈滞しているのになぜ?東日本大震災の後ですら、円高が進んでいる。経済に詳しいはずの高校時代の友人にメールで尋ねてみたら、国際金融資本の動きについていろいろ教えてくれたが、結局わからない。誰かズバリと教えてくれ。


                               (Oct. 2011)

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