謎と謎解き

 私は推理小説が好きだ。というより、今では小説といえばミステリーと怪奇小説しか読まなくなってしまった。推理小説は「本格派」「社会派」「変格派(?)」などと分類されるらしいが、その楽しみの本質は、要するに奇怪な謎が最後には合理的に、かつ、あざやかに解決される、という快感にあるといってもよいだろう。謎解きの喜びは、自然科学の研究者なら多分誰でも知っている。また、大きくは、「自然界は一見、神秘に満ちているが、必ず理解できるはずだ」という信念が文明の進歩を支えてきたのであって、推理小説はその過程を追体験させてくれているのだ、とも言えよう。謎の提示と、謎解きのない推理小説は考えられない。

 一方、私は怪奇小説や怪異譚、幽霊話のたぐいも大好きである。子供の頃に読んで恐かったディケンズの「信号手」やホフマンの「砂男」から内田百間の短編まで、好きな怪奇小説は限り無い。「聊斎志異」に耽溺することをさして「聊斎志異癖」という言葉まであるくらいだから、古来、人間には怪異な話を好む性向があるのだろう。こちらは、推理小説とは異なり、謎は謎のまま読者の前に投げ出され、話は終わる。「死」は最大の謎であるから、怪奇小説の多くは、死にまつわる恐怖と絡みあっている。

 推理小説も怪奇小説も、どちらも好きだ、という人は結構多いと思われるが、考えてみるとその心理にはいささか微妙なところがある、ということに最近、気がついた。つまり、私達は小説を読みはじめる前に、「これは推理小説だ」、「これは怪奇小説だ」と、あらかじめ心の準備をしているらしい。

 このことに気がついたのは、宮部みゆき氏のある短編小説集を読んだ時である。宮部氏は、私がいまさら言うまでもないことだが、現代のもっとも力のある推理作家の一人である。私が最初に読んだ氏の作品は「火車」であったが、その構成力の素晴らしさに、いっぺんにファンになってしまった。次ぎからつぎと、氏の作品を読み進むうちに、本屋で文庫本の短編集を見つけ、喜んで買い求めた。家に帰り、早速、寝転がって読み始める。(私はどんな本でも畳に寝転がって読む。)ウーム、ぞくぞくするような不可思議現象だ、素晴らしい!いったい、どんな謎解きが待っているのだろう、とワクワクしながら読み進んでゆくと、何とそのまま終わってしまうではないか。
「おい、なんだこりゃ」
私は起き上がって叫んだ。うかつにも、私は宮部みゆき氏が怪奇小説作家でもあることを、その時まで知らなかったのである。そう言えば、本の腰巻き(帯)を、もう一度読み返してみると、確かにそれらしきことが書いてある。しかし、私は完全にすかされた気持ちになって、腹を立てた。そして、一人の作家が、推理小説も怪奇小説も書く、というのはずるいのじゃないか、と思った。だって、どんな不可思議な謎でも、超常現象で片付けてしまえばいいのだから。

 そういえば、私は読んでいないが、かの江戸川乱歩氏の連載小説に幻の大作品というのがあるらしい。何しろ、密室殺人は次々起こるわ、謎の怪人物は入り乱れるわ、不可能犯罪のオンパレードで、読者は解決篇を固唾を呑んで待ち望んでいたが、突然、連載打ち切りになってしまった。つまり、乱歩先生にも謎解きが出来なくなってしまったのである。ナニ、こんな時は、エイヤッと怪奇小説に衣替えしてしまえばよかったのである。

 まあ、これは冗談だが、怒りを静めてよく考えてみると、推理小説と怪奇小説の両方を書いている作家は意外と多い。ディクスン・カーの傑作の一つと言われている作品(まだ未読の方のために題名を伏す)では、新婚の妻の顔が17世紀の絵の中に描かれているのを見つける、という不可思議と恐怖の話から始まり、最後に見事に謎が解き明かされるのだが、その後につけられた1、2ページのエピローグで、再び全体が戦慄すべき物語に暗転する(註)。つまり、この話はどこで読み終えるかによって、推理小説とも怪奇小説ともとれる複雑な構成になっているのである。

 カーの場合は、完全に意識的な職人芸であろうが、もっと本質に根ざした深刻な例はエドガー・アラン・ポーであろう。ポーについては、書きたいことがたくさんあるのだが、ここでは、ただ、ポーは「黄金虫」や「モルグ街の殺人」、「メルツエルの将棋指し」のごとき作品と、「リジイア」や「アッシャア家の没落」のような作品が同時に書けてしまった人、というより書かざるをえなかった人だ、とだけ言っておく。「メルツエルの将棋指し」などは学術論文そのものである。ポーの全集を読み、その生涯を知ると、純粋理性の極致が狂気と神秘に接する場面を見る思いがする。ポーの諸作品の書かれた年と彼の年譜を読み比べていて、彼の人生そのものに不気味な謎が隠されていることに、私はある時気がついた・・・。

 私の好みは、「謎」と「謎解き」の間で揺れている。謎が解けたと思ったら、その奥にもっと巨大な謎が立ちふさがっていた・・・。さて、私達の人生は、謎解きで終わるのか、謎に終わるのか。

(註)ひさし振りに読み返してみて驚いたことに、正しくは「17世紀の絵の中に描かれている」ではなくて「とうの昔に処刑された女性毒殺魔の写真と生き写しなのを」であった。私はいったい何を読んでいるのだろう?しかし、17世紀の絵の中に妻の顔が描かれていた方がずっと面白い気がするが・・・。

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