夏の果て

 夏はこのまま永遠に続くのではないか、という理不尽な恐怖を感じながら暮らしていた。


 相変わらずの一人ぐらし。夜、8時ごろに帰宅して宿舎の鍵を開け、部屋の中に入ると、息がつまるような熱気が籠っている。事情があって、エアコンの効く部屋は一つしかないので、この部屋に閉じこもって暮らすしかない。ほかの部屋の温度は真夜中になっても摂氏33度を下ることがない。

 エアコンがようやく効いてきたところで、冷蔵庫から缶ビールを取り出し飲む。毎晩、夕飯がわりにビールを飲んでいる。350ml缶一本では済まなくなっていた。ほとんど物は食べない。何かの終末に向かって、異常な夏に追い立てられて行くような気がする。

 夜中に、めったに鳴らない電話のベルが鳴った。Sさんだった。共通の恩師であったT先生が、亡くなったという。最近、体調を崩しておられると聞いていたのだが、とうとう回復されることはなかった。お通夜は明後日。休暇をとって帰京することにした。

         ◇ ◇ ◇ ◇

 その翌日の午後、急にお腹が痛くなった。下腹部全体が固く張って鈍い痛みがある。ビールを飲めば治るかと思って飲んでみたがひどく不味い。エアコンをかけ放しにして寝てしまった。

 翌朝になっても、痛みが引かない。起きようとするが、苦しくて脂汗が出てくる。食欲なし。コーヒーだけ飲む。我慢して旅行の支度をして、昼ごろ宿舎を出た。新幹線の中では、体を固くしてじっとしていた。東京の家に着くと、妻がただごとでないと感じたのか、無理やり近所の外科医院に連れて行かれた。ここは昔から家族がまずお世話になる個人病院なのだ。

 院長の女医先生が診察してくれる。
「横になってお腹を出してください」
ベッドに横になると、お腹をぐいと押してパッと離す。飛び上がるほど痛い。先生は
「お通夜より即入院です」
と言う。とりあえず精密検査のできる少し離れた大病院のK病院を紹介してくれた。タクシーも呼んでもらってそのまま救急外来に直行した。もう夕方である。T先生のお通夜はあきらめた。明日の告別式には出たい。

 救急外来の担当医は若い女医のS先生である。S先生は外科が専門である。丸顔でクリクリした目をしている。まだ医科大学を卒業して間がないのじゃないかしら?(実際そうだった)
「横になってお腹を出してください」
また、下腹部をぐいと押してパッ、の例のテストをされる。イテテ、それはもうやりましたって・・・。
それからレントゲン、CT、血液検査などの検査を受けた。CTの結果を見せられるがどうもはっきりしないようだ。虫垂炎もあるし憩室炎のようでもある。

 しかし、血液検査の結果は非常に悪い。白血球の数値とCRPがとても高い。体温も38度を越えている。
「すぐに入院したほうがいいですね」

 それは困る。明日は明大前で恩師の告別式だし、明後日は麹町のJSTで大事な説明会がある。ゴニョゴニョと押し問答の交渉事のようになった。結局、S先生はあきらめたように、明後日、再度受診して入院することで妥協してくれた。

         ◇ ◇ ◇ ◇

 告別式には妻と一緒に参列した。若い頃に私たちは本当にお世話になったのだ。お腹に力をいれると痛むので、猫背になりながらそろりそろりと歩いて行く。これでも若い友人に
「カヤヌマ先生は身体のキレがいいですね(歳のわりには)」
と褒められたこともあるのだ。いまはよぼよぼの爺さんだ。

 告別式はT先生の遺志により、親族とごく身近な人達だけのお別れの会になった。簡素だが心のこもった告別式。無宗教。読経の代わりにモーツアルトのメヌエットが流れる。奥様にご挨拶され私は泣いた。私にはいつも若々しかったT先生の面影しか記憶にない。告別式が終わり、そろりそろりと家に帰ると寝床に転がり込んだ。

 翌日のJSTの説明会も歯を食いしばって出席した。この夏、Oさんが代表者で大きな研究費を当てたのだ。すごく野心的なプロジェクトだ。私は理論を引き受ける。長いこといろいろやって来たが、これが本当にやりたかった問題のような気がする。私は本気でやる気になっている。しかし、今はどうにも力が出ない。

         ◇ ◇ ◇ ◇

 翌朝、リュックサックと旅行鞄に洗面器やら衣類やらを詰め込んで家を出た。坂道を下って赤羽駅まで歩き、そこからバスに乗ってK病院に向かった。妻もついて来てくれた。こういうときは妻に頼りきりである。

 S先生は
「やはり虫垂炎です」
とおっしゃる。
「手術するほうが簡単ですよ」
どうも切りたい切りたいという気持ちが前面に出ているような気がする。最近、身内に医療過誤による不幸な事故があり、私は絶対安全な手術など存在しないことを身にしみて知っている。それで抗生物質による点滴治療をお願いした。

 K病院は、赤羽の高台にある新しい病院だ。戦前戦中、このあたり一帯は軍の砲兵工廠で、戦後は米軍に接収されていた。皮肉なことにそのため、広い敷地と豊かな緑が残されたのである。武蔵野台地の端が、下町の沖積平野に張り出し複雑な高低差のある地形を作っている。私の家からは間にいくつかの谷を隔てたこの近辺は、子供の頃は地の果ての世界だった。

 6階の病室は広くて窓も大きく、とてもきれい。パジャマに着かえて横になると、看護師がやってきて、血圧と体温を測り、血液検査と点滴のための注射をしてくれる。これから絶食して3日間の抗生剤点滴を受ける予定だ。入院するのは6年ぶりである。

 同室の患者たちはカーテンを引いて静かにしている。妻も、これで安心とばかりさっさと帰ってしまった。外は暑かったが、病院内はほどよく空調が効いている。静かである。

 ベッドからは、夏の終わりの空と、荒川と、川口、浦和、大宮のあたりの高層ビル群が見える。小学生のころ、女中の力(りき)さんと電車に乗って、西川口の田圃まで蛙を取りに行ったことを思い出す。力さんは看護婦志望だった。半世紀以上も昔のことになる。なんだか眼前の景色が幻のようだ。私は点滴の落ちるのを見ているうちに眠くなってきた。


                                   
        (Sept. 2010)

目次に戻る