向こう岸まで

             
             逝いた私の時たちが  私の心を金にした      T. M.

  

            (1)

 高志のオフィスに、時彦伯父さんから電話が掛かって来たのは、そろそろ夕方の5時を回る頃だった。電話に出ると、懐かしい声が聞こえた。
「今は忙しいの?」
「いえ、まあ世間は夏休みですから」
「それじゃ、しばらく休みをとって山の家に来ない?」
「伯父さんも夏休みですか?」

 時彦伯父さんは、高志の母親のすぐ上の兄である。教師と公務員しか出ない堅い一方の一族の中では、ただ一人の変わり種で、若い頃から様々な職業について、外国暮らしもし、最後に貿易会社を起こしてこれが成功した。特殊な商品ばかりを独占的に取引きしているので、業績は安定している。高志にとっては、伯父というより歳の離れた兄貴のような存在で、子供の頃から可愛がってくれたのである。
 伯父さんには、静子さんという綺麗な奥さんがいたが、一昨年、心臓発作で急死してしまった。二人の間には子供はなかった。「山の家」というのは、長野県と山梨県の境にある高原に、伯父さんが建てた別荘である。高志は高校生の頃から、何度かそこで夏休みを過ごし、近くの山を歩き回ったりした。

 高志が勤めているのは、都心にある中堅の建築設計事務所である。2年前に大学の建築学科を卒業して、ここに就職した。そういえば、高志も一族の変わり種と言えたかもしれない。 

 確かに、僕は少し休む必要がある、と高志は思った。思いきって一週間の休暇をとることにした。

                (2)

 高原の駅に降り立ち、改札口を出ると、伯父さんの古いステーションワゴンが待っていた。
「やあ、わざわざ済みません。タクシーで行くつもりでしたが」
「ちょうどひとつ前の電車で、洋子達も着いたところだ」
「へえ、あの子も来てるんですか?」

 洋子というのは、亡くなった静子伯母さんの妹の娘である。静子伯母さんの親族は、高志の方の一族とは対照的に華やかな女系家族で、伯母さんには何人もの姪達がいた。高志が記憶している洋子は、そのような姉や従姉妹達の陰で、さえない中学校の制服を着て、大人しくかしこまっている目立たない存在だった。

「おおい、高志が来たぞ」
伯父さんが別荘の玄関口で呼ぶと、奥の方から水色のワンピース姿の洋子が出てきた。
「いらっしゃい。先にお邪魔してます」
それはたしかに洋子であったが、一瞬、見違えるようで、高志は呆然とした。毛虫が蛹から蝶に変身するように、ある種の女性も変身するものらしい。
「やあ、洋子ちゃん、大きくなったね」
「なによ、それ」
僕は毛虫の頃の君しか知らなかったからね、という言葉を、高志は苦笑して呑み込んだ。

「高志さん、おひさしぶり」
奥からもう一人、小柄な老婦人が出て来たのは、静子伯母さんの母親、つまり洋子のおばあさんだ。高志もこれまでに何度か会ったことがある。ハキハキとした話好きの婦人だ。静子伯母さんの葬儀の時にも、さして気落ちしたそぶりも見せずに、会葬者の接待に立ち働いていた。今度は、孫娘の付き添いという格好か。

 

 居間に続くベランダで高志と時彦伯父さんはビールを飲んでいる。夕暮れの木立から8月とは思えない涼しい風が吹いてくる。少し肌寒いくらいだ。
「仕事の方は順調にいっているの?」
「ええ、近頃は、まあ僕としてはよく働く方ですね」
「久枝がお前のこと心配してたぞ」
久枝というのは高志の母の名前である。おや、あの話が伯父さんにまで聞こえているのか。高志は少しうろたえた。伯父さんは、しかし、ニヤッといたずらっぽく笑うだけで、それ以上の追求はしなかった。高志は、大急ぎで話題を変えることにした。

「洋子ちゃんはいくつになるんですか?」
「今年、大学生になったって」
伯父さんは、ミッション系の私大の名をあげた。英文科だそうである。
「たしか、姉さんと兄さんがいましたね」
「ああ、3人きょうだいの末っ子。あの子が一番気立てがいいね」
兄は東大を出てどこかのお役人になってたはずだ。姉はちょっと人目を引くほどの美人だったっけ。格別「気立てがよくない」とも思えなかったが、伯父さんの趣味ではないのだろう。洋子はいま、おばあさんと台所で、今夜の食事の支度をしているらしい。

 夕食のテーブルにつくとき、洋子はいつの間にかノースリーブのブラウスと、赤い花柄がプリントされたスカートの普段着に着替えていた。
「料理は洋子が作ってくれました」
とおばあさんが花を持たせてくれたのに
「私、お手伝いしただけ」
と、あっさり真実を告白してしまった。

 久しぶりのにぎやかな夜で、伯父さんは嬉しそうだった。座談の名手である伯父さんの話はいつも面白い。高志はご婦人方に建築設計の話をした。えー、建築というのは、おもに構造力学つまり建物の強さを計算する仕事と、デザインとからなっていましてー、工学と芸術の両方にまたがってるんです。つまり計算された美をつくり出そうと・・・。洋子は目を輝かせて聞いていたが、高志は学生時代に感じていた建築に対する情熱を、失いかけている自分を感じていた。
 洋子が屈託なく話す大学での出来事も、高志にはすでに遠い世界の話と感じられた。混声合唱のサークルに属しているという。
「へえ、洋子ちゃんの歌が聞いてみたいね」
「ああ、おじさんも聞きたいね」
「私も聞きたい」
「ぜったいに歌いません!」

 伯母さんが亡くなってから、山の家を開くのは今度がはじめてなのじゃないかな。ソファにもたれ、手みやげに持参したヘネシーをなめながら、高志は思った。あそこには静子伯母さんが座っていて、夏の訪問客の相手をしていたっけ。そして今晩みたいに、いつも笑い声が響いていたんだが。
 伯父さんの顔にも、さすがに少し老いの影のようなものが見える気がした。

 

               (3)

 翌日、高志と洋子は自転車で遠出をした。高志には、今度ここに来ることが決まったときから、是非、行こうと思っていた所があった。少し上の方に、あまり人に知られていない小さな湖があるのだ。
 別荘に自転車は2台あった。伯父さんと静子伯母さんが使っていたものだろう。伯父さんは
「洋子も連れていってやれよ」
と言った。
「少し登り坂がきついんですがね」
ひとりで行くつもりだったのだが仕方がない。

 誘われて洋子は素直に応じた。庭で待っていると、スカートをショートパンツに履き替えて出て来た。髪を短くカットしているので、こういう格好になると少年のような感じがする。もっとも、高志も半ズボンにスニーカーである。自転車の前かごに、タオルと水筒とおやつのサンドイッチを投げ込んで出発した。

 この高地には珍しく、蒸し暑い薄曇りの日だった。空気が重みを持っているように感じられた。緩やかな丘陵を登り降りして、きれいに鋪装された道がどこまでも続いていた。林の中に入ると、さすがに涼しかった。高志は先にたって、どんどん自転車をこいでいった。洋子との距離があまり離れると、自転車を止めて待った。ながい坂道の途中で、大きく引き離してしまったのを待っていると、洋子はハアハア息を弾ませながら登って来た。我慢強い子なんだ、と高志は上気した洋子の顔を見て思った。それからは、出来るだけゆっくりと進んでやった。

 湖畔には人かげもまばらだった。遠くで、ひと組の家族連れが子供を遊ばせていた。高志と洋子は、裸足になって水の中に入った。晴れていれば正面に見えるはずの八ヶ岳連峰も靄にかすんでいる。対岸は、深い樹木におおわれて黒ぐろと静まりかえっている。
 高志は向こう岸にも遊歩道が通っていることを知っていた。なぜなら、学生時代に一度だけ、この湖を泳いで渡ったことがあったから。一人で泳いで渡り、意気揚々と遊歩道を歩いて帰って来た。それは危険な挑戦だったが、高志はやってのけた。あの頃、全ては簡単明瞭だった。まだ、あの人を知らず・・・。

「泳ごう」
と高志は言った。
「だって、水着も何もない」
「そのままでいい」
「何ということをおっしゃるのです」
「とにかく僕は泳ぐからね」

 高志はシャツを脱ぎ、丸めてスニーカーの上に投げ捨てた。そしてジャブジャブと水の中に入っていった。水に身を横たえると気持ちよかった。ゆっくりと大きなクロールで、沖に向かって泳ぎ始めた。じきに水深が深くなり、岩だらけの水底が見えなくなった。

 今でも向こう岸まで行けるだろうか?向こう岸まで行けたら、あの人は帰ってくるのではないか?でも、それはまた同じ苦しみの繰り返しにすぎない。僕もあの人も、一緒に歩き続ける勇気がなかったのだから。たとえ破滅に向かってでも・・・。

 高志は何かに誘われるようにどこまでも泳ぎ続けた。

 水が急に冷たくなった。高志は泳ぐのをやめて、水に身を浮かせた。対岸までの距離は、さほど縮まったようには見えなかった。自分の立てる水音のほかは何も聞こえず、あたりを静寂が支配していた。

 振り返ると、さっき出発してきた岸が遠くに見えた。高志は、そこに残して来た人のことを思い出した。帰ろう、と思った。もう、向こう岸には何もないのだ。

 帰りは遠かった。思っていた以上に体力が衰えているようだ。いくら泳いでも、なかなか岸は近づかない。2、3回、水を飲んでしまった。パニックに陥らぬように、高志は自分をコントロールしながら、ゆっくり泳ぎ続けた。やっと足の立つ浅瀬に辿り着いたときは、疲れきっていたがほっとした。

 波打ち際に洋子が立っていた。黄泉の国から帰還したオルフェウスさながらに、高志は洋子に近づいていった。近づいて、洋子のかたくこわばった表情を見たとき、高志は自分の常軌を逸した行動を深く後悔した。それがどれほど洋子を途方にくれさせ、そして、多分、傷つけたことか。

 堪えかねたように、洋子の顔がゆがんだ。洋子の身体が揺れ、差し出した高志の腕の中に、暖かい柔らかなものが飛び込んできた。
「ごめんね。悪かった」
高志がくちづけした洋子の額は、汗でほのかな塩味がした。

 

 帰り道で夕立ちにあった。空が急に暗くなったと思う間もなく、二人は大粒の雨の弾幕にとらえられてしまった。道路を、雨水が川のように流れて行く。洋子の衣服もずぶ濡れで、ぴったり身体に張り付いてしまっている。
「あーあ、こんなことなら私も泳げばよかった」
洋子は言った。
 雨宿りするような場所も無かったので、破れかぶれの気楽さで、二人はおしゃべりしながら、雨の中を並んで走った。
「私、静子伯母さんに、養子にならないかって、言われたことがあるの」
それは初耳だった。
「私は、それでもいいと思ったけど、父と母が断ったらしい」
松濤の洋子の家で会ったことのある、少し浮世離れしたところのある母親を高志は思い出した。
ただの苦労知らずのお嬢さんというわけでもないのかな。洋子の18年何ヶ月かのこれまでの人生が、急に生き生きと、高志には感じられてきた。

 ところどころ畑の入り交じった原野を、次から次へと驟雨の濃淡が走り抜けていく。ああすごい、レースのカーテンが風に揺れてるみたい、と洋子は言った。遠くの空が、もう明るくなり始めていた。

                (4)

 翌日は、朝からよく晴れていた。空の色が淡くなった。なんとか持ちこたえていた夏が、あの雨で急に衰えを見せ始めたようだった。この日、洋子とおばあさんは午後の列車で東京へ帰ることになっていた。洋子はいったん東京へ戻り、明日からサークルの合宿に参加するのだ、と言った。洋子には洋子の、僕の知らない世界があるのだ、と高志は思った。おやおや、僕は嫉妬しているのかしら。

 お昼御飯を食べてから、駅まで行く二人を車で送っていった。伯父さんは助手席に座り、高志が車を運転をした。駅に至る街道は、白々と晩夏の光に輝いていた。
「時彦さんも、そろそろ良い人を見つけて下さいね」
おばあさんは後部座席から伯父さんに語りかけた。
「まあ、その気になりましたら」
伯父さんは笑いながら答えた。洋子は黙って窓の外を見ていた。

 駅前に着くと、伯父さんとおばあさんは、窓口に切符を買いに行った。高志は車のハッチバックを開けて、洋子のスーツケースを取り出してやった。
「さようなら。楽しかったね」
「溺れかかったり、雨に降られたり、ね」
洋子の笑顔につられて、高志も笑った。
 洋子は、急に深い目つきになり
「わたし、本当に心配したのよ」
と言った。 そして、また笑い
「ねえ、秋になったら、合唱の発表会があるの。わたし達、とってもへたくそなのよ。でも、切符送るから聞きに来てね!」

 

 高志と伯父さんは改札口で、向こう側のホームにいる二人を見送った。おばあさんはベンチに座っていた。水色のワンピースに白い帽子をかぶった洋子が、その横に立っていた。駅の花壇には、コスモスとダリヤの花が揺れていた。

 秋になったら、と高志は思った。僕は多分、とってもへたくそな合唱を聞きに行くだろう。

 上りの列車はすぐにやって来た。列車がホームに入り、二人の姿を視界からさえぎる前に、洋子はスーツケースを持ち上げ、片手を高く振った。おばあさんは、ていねいにお辞儀をした。

                     (Aug 2001)

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