耳の悦び

 小林秀雄はどこかで、ある哲学者の言葉を引用して
「目は疑い、耳は信じる」
という意味のことを書いていた。
 また小林によれば、論語にある孔子の言葉
「六十にして耳順う」
の本当の意味は、
「自分は齢六十になって、やっと、誰彼の説く理論も、その理屈に惑わされることなく、声音を聞くだけで真偽のほどが聞き分けられるようになった」
ということなのだそうだ。これは孔子様が音楽好きだったことと関係しているのだという。
 
 何しろ小林秀雄全集も何もかも東京へ送ってしまい、手元に本が全く無いに等しい生活をしているので、やむを得ず記憶に頼って書くのだが、内容は間違っていないはずだ。

 目は疑い、耳は信じる。それは視覚と聴覚の違いについて述べているのだ。私たちはものを見るとき、必ずどこかで批判的に、つまり疑いながら情報を取り入れている。それに対して、耳から聞かされたことは、誰でも、とりあえずそのまま信じるしかないというのである。
 ものを見るとき、私たちはきっと「何を見るか」を意識している。つまり見るという行為そのものが意識的である。目は疑いながら見ているわけだ。(註1)

 人間が外部の情報を取り込む感覚器官として、目と耳を持っていることの意味を考えてみると面白い。視覚と聴覚では、受け取れる情報量では視覚の方が圧倒的に大きい。すなわち百聞は一見にしかず。

 目は意識的に閉じることができるし、眠っている間は閉じている。しかし、耳はそうではない。耳は後ろの音も聞き取るし、眠っているときにも開いていて、危険を察知することに役立っている。目から入った情報は、脳の中で理性的・論理的に処理されるのに対し、耳からの情報は、もっと根源的な、というか奥の方にある古い部位に届くような気がする。 

 私は良い声の持ち主がうらやましい。すべての楽器は人の声をまねて歌おうとしているのだ。きれいな歌声を聴くと、耳の穴から魂が誘われて迷いだしていくような気がする。亡くなったT先生は、越路吹雪の声の魅力について私に語ったことがある。また、あらゆる音楽の中で、声楽は特別のものだともおっしゃった。声の記憶はいつまでも残る。とりわけ耳元で囁かれた声などは・・・。

 耳の悦びは、うらを返せば静寂の悦びでもある。しかし私たちは絶えず騒音にさらされて生活している。人間は醜いものからは目をそむけることができるが、耳はそうはいかない。聞きたくなくても、いやでも音は入ってくる。私は少し音に過敏なところがあるのかも知れないが、ときにそれが耐えられなくなることがある。

 私の勤めている大学のキャンパスの真ん中に文化部の部室棟があり、その一室から猛烈な音量でロックミュージックらしきものが流れ出してくる。演奏しているわけではなくて、誰かがCDを大音量で再生しているのだ。キャンパスをどこまで行っても、その音の暴力から逃げられない。凄まじい大音量である。まあ、まともな大学でこんなことが許されるとは思えない。私はピアノ騒音殺人事件(註2)を思い出した。

 

註1:視覚の不思議については、たとえばV.S.ラマチャンドラン「脳のなかの幽霊」。

註2:1974年、平塚市の団地で起きた事件。46歳無職の男Oが、階下の部屋で子供の弾くピアノの音に耐えられず、刺身包丁で8歳と4歳の娘およびその母親を刺殺した。死刑判決に対してOは「拘置所の騒音に耐えられない」と自ら死刑を望み、弁護士に相談なく控訴を取り下げ、判決が確定した。未だに刑の執行はなされていない。Oは犯行の直前には、雀の鳴き声すら苦痛に感じ、木によじ登って「雀よけ」のテープを張り巡らせていたという。

 

                                    (Nov. 2011)

 

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