味覚に関する一考察

 およそ食べることをテーマに、格調の高い文章を書くなんてことは至難のわざなのだが、まあやってみようか。味覚の秋でもあることだし。

 視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感の中で、もっともあいまいかつ精妙なのは、断然、味覚だろう。私見によれば、動物の進化の過程で最初に発達したのは視覚でも聴覚でもなく、味覚だったのである。なにしろ動物はモノを食べなければ生きていけないのだから、食べられるものと食べられないものを見分ける能力こそ死活問題だったはずだ。食すべきか食さざるべきか、その判断を間違ってばかりいた味覚音痴の種は、たちまち食中毒で絶滅してしまったに違いない(萱沼説)。ところで貧弱な肉体しか持っていなかった人類の祖先が、他の肉食獣に食い尽くされて滅びることもなく生き残ってこられたのは、別に知能が発達していたためじゃなくて、単にその肉が不味くて食えたものではなかったからだという説もある。

 若いときから歳をとるにつれて、食べ物の好き嫌いが変わってきたという人は多いだろう。だいたい子供はすべからく甘いものが好きである。ボクは渋いお茶が大好きだ、なんていう子供はあまりいない。「甘い」というのはもっとも根源的な味覚なのである。

 私見によれば、「甘い」と「美味い」とは、本来、同じ言葉であった。すなわち 「あまい=うまい」 である。ではなぜ人間は甘いものを美味いと感じるのか?これには理由がある。狩猟採取生活をしていたころの人間にとって、山野に自生する木の実や草の実は大事な食糧源だった。その実の中で、苦いものの多くは有毒だが、甘いのには食べられるものが多かった。それで甘いものは良きもの、という本能が発達したのである(萱沼説)。血糖値がどうのこうの、カロリーがどうのこうのという話は置いておく。動物と植物の適応の話が逆じゃないか、というクレームも受け付けない。

 子供は甘いものを喜ぶが、人間、歳をとってヒネてくるにつれて、味覚のほうもヒネてくる。甘いだけでは物足らなくなって、「酸っぱいもの」「辛いもの」「苦いもの」が食べたくなる。要するに本能に逆らってみたくなる。本場のインドカレーとか、四川料理のマーボー豆腐(ああ、横浜中華街の景徳鎮!)だとか、さっと湯がいた苦いゴーヤーだとかは私も好きだ。それにしても「辛くて美味しい」とか、「苦くて美味い」というのは、かなり屈折した感覚だと思う。

 私がまだ甘いものが好きな素直な子供だったころ、晩酌中の父親にビールを飲まされたことがある(ひどい親だ)。なんでこんな苦くて不味いものを大人は飲むのだろう、と思った。それがアナタ、今ではこんなに美味いものはないのだ。「ラガーは苦い 人生のように」なんていうCMを思い出しながら毎晩、飲んでいる。

 人生経験の深化による味覚の屈折も、だんだん激しくなってくると「臭くて美味い」というところまで行く。臭くて美味い食べ物といえばクサヤがすぐに出てくるが、ある種のチーズも相当すごいらしい。琵琶湖のなれずしや納豆なんかもそうじゃないか?人の顔で鼻が口の上にせり出しているのは、食物の腐敗を感知して食中毒を避けるためだ、という説があるが、むしろ、とことん味覚の悦楽に浸るためではないかと思えてくる。

 ところで究極の屈折した味覚をご存知か?それは「痛くて美味い」である。ある地方の蟹味噌は絶品には違いないが、蟹の甲羅や脚の殻の砕けたものが混じっていて、それが口の中にチクチクと突き刺さる。尾崎士郎の随筆に、この蟹味噌でもてなす主人と来客とのやりとりが出てくる。
「いかがですか」
「ハ、痛いです」

 ああ美味いものが食べたくなってきた。

 


                                        (Oct. 2012)

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