マヤの神官たち

 紀元前から10世紀にかけて、ユカタン半島を中心に栄えたマヤ文明は、暦と天体の運行に関する知識に優れていた。彼らは地球の正確な公転周期を知っており、また日食や月食の予言なども行っていたらしい。これらの知識は、支配階級であり唯一の知識階級でもある神官らによって司られていた。マヤの神官たちは、民衆に理解できない特別の言語によって、これらの知識を伝えていたという。自分たちには分からない言語をあやつり、日食を予言する神官たちは、民衆の心に畏怖の念を呼び起こしたにちがいない。

 最近、ピーター・ウォイト(Peter Woit)著「ストリング理論は科学か?(松浦俊輔訳・青土社刊)」を読んだ注)。原題はNot Even Wrong (間違いですらない)である。これはパウリが、ある若い研究者の仕事について感想を求められて悲しげに答えた言葉とされている。間違いですらない理論とは、実験によってその正否を判定することも出来ない理論であって、要するに科学の埒外にある寝言のようなものである。

 著者のウォイトは、ハーバード大学の物理学科を1979年に卒業後、プリンストン大学(デービッド・グロスやフランク・ウイルチェックがいた)で学位を取り、いくつかのポスドクや無給のポストを渡り歩いてストリング理論を中心に研究してきたが、数学に転じ、今はコロンビア大学の数学科にテニュアのない常勤講師として勤めているという経歴の持ち主である。Webで調べると1980年代に比較的良く引用される論文を2つ3つ書いている。

 すこし長くなるが、前書きの一部を引用しよう。

「1987年に物理学を離れたとき、一流の理論物理学者の関心は、ほとんどスーパーストリング理論の分野一色になっていた。当時私にわかった範囲では、あまり有望なアイディアには見えず、他にもたくさんあった失敗したアイディアがたどる道を進む定めにあった。私も他の誰も知らなかったことは、スーパーストリング理論が、標準モデルの先へ行くことに何の成功もしなくても、登場して20年以上、素粒子論を支配し続けることになるということだった。こんな奇妙な状況が、どうしてもたらされたのか。それが本書の中心的な関心の一つである。」

「1984年には、スーパーストリング理論のことは、どちらかといえばあまり知られていなかった。その後、膨大な研究が行われ、パウリのせりふは、この理論の地位をぴたりと表わしていることが明らかになり、実際、何人かの物理学者は公然とそのように規定している。これから見るように、「スーパーストリング理論」という言葉は、実は明瞭に立てられた理論を指すものではなく、存在するかもしれないという、まだ実現していない希望を指している。したがって、この「理論」はまったく予測を出さない。間違った予測さえ出さず、まさにその反証ができないところによって、この分野全体は生き残り、栄えてきたのである。(中略)実験の規律に従わない推測が科学の領域を占有してしまうと、どういうことになるのだろう。」

 このように、本書は、はっきりとストリング理論(とそれを中心とする素粒子理論の研究体制)に批判的な立場から書かれている。しかし、著者のスタンスは公平で真面目である。とくに、前半では実験装置である加速器の発展をレビューし、量子論の発端から始めて標準理論にいたる素粒子物理学の歴史についてかなり詳しく紹介されている。1973年に漸近自由が発見され、標準モデルの構成要素が出揃い、素粒子物理学の劇的な進歩の時代が終わった。その後にきたのがことごとく失敗に終わる「標準モデルの先」の時代であり、それが今に至るまで続いている、と著者はいう。

 「標準モデルの先」の時代についても、詳しい説明がなされている。(無論、数式を使わず、素人に向かって説明するのだから限界は知れているが。)この部分の筆致は、たいへん慎重である。なにしろ(スーパー)ストリング理論はとても難しい理論であり、途轍もない秀才たちがそれに関わってきたのだから慎重にならざるをえない。スーパーストリング理論を理解するためには、まず量子場理論を勉強しなければならず、それ自体が歯ごたえのある課題である。そうなると、大学院の3年目になるまではスーパーストリング理論の勉強を始めることすら難しい。若手のスーパーストリング理論家は、実は、この分野のほんの一部に習熟しているに過ぎない。本当の専門家になるには何年もかかる。

「しかし、この数学者の間での傲慢(=正確さが全てで、分かりやすく説明する必要などないという態度)も、スーパーストリング理論家に見られることがある傲慢と比べると、顔色ない。(中略) スーパーストリング理論研究が、物理学科で進められる様子と、人文系の学科でポストモダン「理論」が研究される様子との間には、顕著な類似がある。どちらの場合にも、研究が難しく分かりにくいことを喜ぶ研究者がいて、しばしば、そのために自分たちのしていることを過度に立派だと思うことになる。」

 20年以上もの間、なに一つ検証可能な予測を出せなかったにも関わらず、ストリング理論を研究し続ける理由は、「他にゲームをやっていない」からであり、「天才ウィッテンがやっている」からである。それではストリング理論は物理学ではなくて数学なのか、というとそうでもないらしい。

 この本の終わりに近づくと、次第にストリング理論をめぐる素粒子物理学界の知的退廃についての話題が多くなる。アメリカにおける有力大学でのストリング理論家によるポストの独占からストリング理論の批判者(著者を含む)に対する個人攻撃にいたるまで。この本が書かれたのは2002年、出版は2006年である。多分、ストリング理論の「栄光」は今も変わっていないだろう。

 あるテーマを中心とする研究者集団が、自分たちの利益(ポストや研究資金)を守ろうとする政治的活動に入るのは、ありふれた傾向である。このことは、多額の研究資金が政府などから投下される分野で著しい。そして、その研究者集団の自己保全本能は、時に、研究者に不可欠な知的潔癖さとは相容れないメッセージを世間に向かって発するところまで行く。近いところでは「地震予知」や「核融合発電」の夢物語を思い起こせばよいだろう。そういう時は、誰かが内部からノーを発するしかないのだ。

 マヤ文明は、人類の知的財産に何の痕跡も残すことなく密林に消えていった。神官らとともに。

  

注)Peter WoitのHome Pageは                                       
http://www.math.columbia.edu/~woit/

                                        (Aug. 2009)

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