間違いについて

 ひとが犯す「間違い」には二種類ある。一つは「事実誤認」または「判断ミス」で英語ではmistakeに相当するだろう。もう一つは、「不正行為」でこちらはmisconductが一番近い。日本語ではどちらも「間違いを犯した」と言うが、英語では全く違う単語になっている。

 私は理論屋なので理論に即してお話をさせていただきたい。物理の理論というのは数学みたいなキチンとした学問だから、日頃の研究でも間違いはあまりしていないだろう、と考える人もいるかも知れないが、とんでもない。理論の研究者が毎日やっていることは、ほとんど自分の犯した小さな間違いの発見とその訂正である。「人間は間違いを間違いと認識することによってのみ、正しく推論する」と言った人がいるが、そのとおりだと思う。私たちに判断できるのは、「何かが正しい」ということではなく、「何かが間違っている」ということでしかない。これは少し考えてみればわかることだ。

 いきなり正しい理論をスラスラと書き下せる理論家はいない。奇跡の年1905年のアインシュタインだけは例外だったかも知れないが、その彼でも晩年の「統一場理論」では悪戦苦闘している。もっともこれは(今から見れば)問題設定が完全に間違っていたことに起因するのだが。

 さて、どんなに注意して作り上げた理論でも、最後の最後に何かの異常に気付くことがある。うーん。どこかで間違えたのだ。出発点となるモデルの設定がおかしかったのかもしれないし、近似の仕方を間違えたのかもしれない。理論と言っても紙と鉛筆だけで済んでいたのは昔の話で、ほとんどの場合はコンピュータによる数値計算がつく。そのために膨大なプログラミングが必要になることも少なくない。そのプログラムにバグが残っていたという場合もある。

 間違いに気づいたらどうするか?ただちに最初からやり直す、これしかありません。その徒労感は半端じゃないが、それ以外に進むべき道はないのである。これは理論の話だが、実験的研究の方も同じだろう。みんなそうしているのだ。

 

 mistakeに気づきながらそれをそのままにして論文を書いたらmisconductになる。いまは大人数で一つのテーマを突っつく研究スタイルが普通になってきた。そうなると責任の所在があいまいになるとともに、mistakeとmisconductの境目もややあいまいになってくるだろう。

 「STAP騒動」では若山照彦氏は間違いに気づき、痛手を負いながらも引き返す道を選んだ。飛び切りの秀才だった笹井芳樹氏が間違いに気づかなかったはずがない。おそらく小保方晴子が本当は何をしたのか、彼には一瞬、見えたに違いないと私は思う。しかし引き返すにはあまりに深く関わりすぎていた笹井氏は、疑惑を強引に意識下に抑圧してしまった。これはおよそ科学をする人間にとって長く耐えられる状態ではない。矛盾が極限に達したとき、彼は縊死によって自らを破壊した。恐ろしいことだ。

 「何かが間違っている」という判断のできない人は恐ろしい。過去の研究不正事件では、不正を働いた当人が相応の報いを受けたことは、実はほとんどない。彼ら彼女らの罪の意識は、なぜか常にプロテクトされた状態にあるようだ。逆に不正を告発した人や、巻き込まれた関係者が精神を病んで研究を続けられなくなってしまったり、もっと不幸な結末になってしまったことが多いのである。研究不正を許してはならない。


補足

報道によれば笹井氏はある時期から強度の鬱状態にあったと思われる。鬱病は消化器や循環器の病気と同じく、誰もが罹りうる「病気」である。病気に罹ったら良いも悪いもなく治さなければならない。それにはストレス要因から遠ざかることが前提条件である。理研にはその配慮もできなかった。これこそ大きな失態だと思う。



                                        (Aug. 2014)

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