田舎の学問と京の昼寝

 

データ捏造をした話

 一年ほど前の物理学会での話である。修士課程院生のG君を第一著者とするポスター講演の申し込みをした。講演申し込みの時点では、まだ計算結果は出ておらず、見切り発車である。これはよくある話で別に問題はない。

 研究の目的は、短い光パルスで結晶を照射したときに、どういう具合に原子の振動が始まるか?という問題を理論的に調べることである。考えられる過程としては二つあって、光が結晶に吸収されてしまう場合と、散乱されて返ってくる場合とである。

 G君が計算ソフトを使って、それぞれの場合について振動の様子を計算してくれていたが、学会直前になってある事情から休学して帰郷してしまった。しかし手元には計算結果をグラフ化したものが残されているので、私がそれをポスターにしてN先生との3人連名で発表することにした。

 この段階で困ったことが判明した。量子力学では虚数単位 i がいたるところに出てくるのだが、密度行列を計算するときに i×i= -1 に比例する項と i×(- i)=1 に比例する項とが散乱と吸収のそれぞれに対応して出てくる。これは結果の符号に影響するので重要だ。そこを私もG君も混乱していて符号を間違えていたことに気付いた。結果としては、光散乱の場合は原子の運動の向きが直観に反することが分かって、それはそれで面白い発見なのだが、縦軸の符号を間違えたグラフしか残ってない。

 困りあぐねてG君の残していったグラフをパソコン上でいじっていると、動くことに気付いた。そこでためしに図の上側の枠をマウスのカーソルで抓んでグイーッと引っ張ると、裏返しになって上下が逆転するじゃありませんか! しめたっ!

 ポスターにはこの図を貼って素知らぬ顔で発表した。だからよく見ると書き込んである文字が裏返しになっている。これは私がデータ捏造をした生涯で唯一の例である。謹んでここに懺悔いたします。



候文で書いた論文

 これは半分は自慢していうのだが、私は高校時代に英語が得意科目だった。本当です。3年間を通じてクラス担任だったO先生の専門が英文学で、その授業が面白かったこともある。教科書ではOscar WildeのHappy Princeをやったし、副読本にはAldous HuxleyやThomas Hardyを読んだ記憶があるから、これはもうガチガチのイギリス文学である。O先生は今もご健在だが、当時から「老成」が服を着て歩いているような方だった。私たちの卒業後、ある私立大学の教授になられた。

 O先生の授業がどんな具合だったかというと、Happy Princeの中に “warm reality”という言葉が出てきたときのことを思い出す。これをどう訳すか、ということを先生は次々に学生に当てていくのだが、「暖かい現実」などという訳はすべて落第である。全員討ち死にしたあとで、「血のかよった現実」でしょ、とO先生は苦々しげにおっしゃる。要するに英語を日本語に訳すのではなくて、英語で文学を理解することが求められるのだ。

 私は高校時代のある時、突然、英語がすらすら読めるようになった。これは不思議な経験だった。多分、同じような経験をした人は多いだろうと思う。Conan DoyleのSherlock Holmesの短編やらRobert Lyndの随筆集In Defense of Pinkなどを本屋で買ってきて勝手に読んだ。読める本の数が、日本語と英語とで2倍になったので大いに得をした気分になったものだ。

 ここまでは良かったのだが、これで慢心してしまったのだろう、大学に入ってから以降は全く英語の勉強をしなかった。研究者になって論文はすべて英語で書いたわけだが、見よう見まねの英語で、これまでに100篇ぐらいは書いてきた。最初の論文だけは指導教官と共著だったので添削して頂いたが、それ以後、誰かに直してもらったことは一度もない。

 最近、頼まれて光電子分光に関する少し長いレビューを書いたので、初めてお金を払ってネイティブによる論文校閲なるものを依頼してみた。返って来た原稿は真っ赤に朱が入れられている。読んでみると、どうも間違いがあるわけではなくて不適切な表現が多いらしい。たとえば理由を表すsinceという接続詞はすべてbecauseに直されている。また、「〜と比較して」というところは、私はas compared withとする癖があるらしいのだが、すべてcompared withになっている。辞書で見るとどちらも載っていて別に間違いではなさそうだが、へえ、そうですかい。

 どうも私の英文には思い切り古臭い表現が多いのかも知れない。なにしろ五十年前に習ったKing's Englishですからね。Thomas Hardyですからね。ひょっとすると私は日本語でいうと候文(そうろうぶん)に近い古い英語で論文を書いてきたのかしら?
 「我等がモデルハミルトニアンは以下のごとくにて御座候・・・」とか。

 


田舎の学問と京の昼寝

 「田舎の学問より京の昼寝」とは習い事に関することわざである。これは残酷なことわざだ。残酷なのは、事実その通りではあるのだが、誰でも京で暮らせるわけではないからだ。努力によってはどうにもならないことを言っているのだ。

 これは研究者の世界でもあてはまるようだ。研究という人間の活動のコアには、いまだに師匠から弟子へとしか伝えられない何かがある。その点で、研究は習い事の世界に似ている。ノーベル賞受賞者の研究室からノーベル賞受賞者が輩出することはよく知られた事実である。研究者を志す若者が、良い指導者がいる研究室に巡り合えるかどうかは人生を分ける最初の運だめしである。

 田舎で学問を始めた若者には、最初から大きなハンディがある。一方、京で暮らしている若者、つまり大教授の率いる恵まれた研究室にいる若手研究者には、「よい問題」を選ぶセンスや論文投稿のコツが自然と身に着くだろう。将来役に立つ人脈も自然にできる。ただ、そのような恵まれた環境で順風満帆の研究者生活を始めた人でも、田舎に移って、つまり他大学に移って自分の研究室を立ち上げた頃から、急に輝きを失ってしまう例もある。そういう人は、結局は京にいてこそ輝けるというだけの人だったのだろう。
 
 田舎からも天才が現れることがある。たとえば数論のラマヌジャン。インドのマドラスの港湾事務所で働きながら、奇妙な数学をやっていたラマヌジャンを発見し、ケンブリッジへ、すなわち京へ呼び寄せたのは大数学者のG.H.ハーディである。ラマヌジャンは神秘的な能力で、不思議な関係式を次々に発見していったが、数学には証明が必要であるということを遂に理解しなかった。ハーディは何とかラマヌジャンを馴致しようと試みたが、京の水はラマヌジャンには合わなかったと見える。彼はホームシックになり、病を得てインドに帰国後、早世してしまうのである。これはつらい話だ。



                                          (May 2015)

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