くじら

 昔、父親に聞いた話である。父が、まだ幼かった私を連れて銀座通りを歩いていたら、知り合いの女性(多分、飲み屋のママさん)にばったり出会った。その時の会話。

ママさん:「あらいい子ねえ。何か御馳走しましょうか。何が食べたい?」
私:「くじらー」

 実際、鯨は私らが子供のころは貴重な動物性蛋白質源だったのだ。もっとも、その頃はまだ冷凍冷蔵技術が進んでおらず、鯨の刺身などは市場に出回っていなかったし、なにか保存のための加工が施された鯨の肉は固くて臭みが強かった。私はよく食べはしたが、そんなに好きだった記憶はないのだが・・・。

 その鯨肉がいよいよ食べられなくなりそうだ。今年の国際捕鯨委員会(IWC)で、日本が行っている「調査捕鯨」に厳しい条件が課せられることに決まった。もっともこれには法的拘束力はないらしく、日本は南極海以外での調査捕鯨は継続する予定という話である。

 調べてみると、日本の南極海での「調査捕鯨」は1987/1988年のシーズンから始められている。これは1982年にIWCで「商業的捕鯨モラトリアム(禁止)」が採決された結果1987/1988年から大型鯨類の商業的捕獲が出来なくなったことを受けての対抗措置である。南極大陸の約半分を自国の領土と主張するオーストラリアは2010年、日本の「調査捕鯨」は、科学的調査の要件を満たしていない等の理由を根拠として、非合法であると国際司法裁判所に提訴した。2014年の3月に判決がくだされ、日本側の全面敗訴になったことは記憶に新しい。今回の国際司法裁判所の裁定に負けたのは「調査捕鯨」の欺瞞性をつかれたのである。

 ここに至るまでにはいろいろと紆余曲折があったようだが、要するに捕鯨に関しては日本は追い詰められているのだ。ノルゥエーなど一部の国を除く欧米各国の大半は反捕鯨一色である。日本は先進国の中では珍しい「捕鯨大国」なのである。日本には沿岸捕鯨の長い伝統と文化もある。

 イルカも鯨の中に含まれる。欧米人が捕鯨に反対する理由の一つに「鯨やイルカは知能の高い動物だから」という主張が見え隠れする。牛や豚は「知能が低いから」大量に殺してよくて、鯨は「知能が高いから」殺してはいけないのか?ここから優生学に基づく人種差別まではただの一歩である。そのことは彼らにもわかっているから、最近は表立っては言わないようになった。鯨やイルカは可愛くて、牛や豚は食欲の対象としてしか見ない、というのは単なる習慣の違いだろう。オーストラリアでは可愛いカンガルーを食べる。

 他国の食習慣にまで口を挟むのも良いことではない。中国人や韓国人が犬を賞味するのは周知の事実だが、それは彼らの勝手である。人以外なら何を食べようと、よそから文句をいう筋合いはない。人間は所詮、他の動物の命を頂かなければ生きていけないのだ。

 しかし、こういうことの全てを考慮に入れても、捕鯨に関する私の意見は「もうやめたほうがいいだろう」ということだ。

 その理由はただ一つ、
「野生状態の哺乳動物を食料として組織的に捕殺するのは、この地球上ではもう無理だ」ということだ。鯨は絶滅に瀕しているわけではない。牛豚と鯨との違いは、食肉用に品種改良されて飼育されているかいないか、の一点だけである。

 今の日本は鯨肉が食べられなくなっても、日常生活に支障が出る状況ではない。捕鯨に携わって生活している人たちの今後をどうするかは、別に考えればよい。伝統文化の多様性が絶たれる、と心配する向きもあるが、近代以前の日本で伝統的に行われてきたのは沿岸捕鯨である。宮城県の鮎川や和歌山県太地町などで行われている沿岸捕鯨やイルカ漁は、アメリカ大使が何と言おうがIWCの管轄外だから続ければよい。

 シーシェパードなどの無法行為に負けたように見えるのは癪にさわるが、今が名誉ある撤退をする最後のチャンスだと思う。



                                        (Sept. 2014)

目次に戻る