骨折クラブ

 ことし九十一歳になる私の母親はいわゆる「怪我っぽい」人で、若い頃から怪我ばかりしていた。私が高校生の頃、母は父に誘われて町のアイススケートリンクに出かけた。そしてどういう転び方をしたのか知らないが、前歯を折って帰ってきた。一緒に帰宅した父は憮然とした表情で書斎に引っ込んでしまった。

 その父が死んだあと、母はいろいろな活動に精を出し、自転車に乗って走り回っていた。その間、少なくとも3回、転倒して足や背骨を骨折している。そのうちの一回では、国道の交差点を左折してくる車にはねられたので、本当に危なかったのだ。八十歳代も後半のころ、もう自転車には乗らないでくださいと、子供や嫁たちに言い渡され、母はしぶしぶ自転車をやめたが、昨年、散歩中に転んで、また大腿骨を骨折した。私はこの時、生まれて初めて救急車に乗って病院まで母に付き添って行った。外科病院では、大腿骨をボルトで留める手術をした。何しろ高齢なので、このまま寝たきりになってしまうのではないかと心配したが、リハビリに励み歩けるようになった。家族の者は、その気力に「不死鳥のようだ」と感服しつつも、あまりの怪我っぽさに半ばあきれている。


 これに対して、私は切り傷や捻挫以外には、大きな怪我をしたことは、これまでに一度もなかった。小学生のころに町の道場に通って柔道をやっていたので、受け身が出来たし、自分でも身のこなしには自信があった。つまり過信していた。

 その私が、ひと月ほど前に転んで腕を骨折した。勤務先からの帰宅途中、最寄駅への坂道を下っていると、電車が入ってくるのが見えたので駆けだしたら、足がもつれてもろに転倒したのだ。「理論家の商売道具」の右手を庇ったのかどうか知らないが、左半身を強打して左腕を痛めた。

 翌日、大学病院の整形外科に行ってX線で見てもらうと、橈骨の先が割れている。実はこの時まで、人の腕の骨がどういう構造になっているのか、漠然とした知識しか持っていなかった。肘から上の上腕部には一本の骨(上腕骨)が通っているが、前腕部は尺骨と橈骨に分かれている。その橈骨が掌に接する部分の骨折は、一番ありふれているらしく「橈骨遠位端骨折」という立派な名前までついている。私の傷病名は橈骨遠位端骨折である。

 結局、入院して手首を切開し、橈骨を金属プレートで固定してもらった。すでに手術から一月以上経過しているが、左腕全体の痛みがまだ続いている。この間、私は両手を使わなければできない作業というものがたくさんあることを思い知った。その最たるものが、手の爪を切ることである。左手の爪を爪切りで切ったあと、右手の爪はどうやって切るんだと愕然とした。手術後しばらくの間は、左手指の痛みでパソコンのシフトキーが押せないほどだったのだ。今でもタオルを絞るのはつらい。


 このHPの「麻酔と音楽」という駄文に骨折と手術のことを書いたら、旧知のSさんからメールが届いた。なんでも昨年の暮れに、飼っている柴犬の散歩をさせていたら、大型犬を連れた見知らぬ夫婦に出会ったという。その大型犬がリードを抜けて襲いかかってきたので、愛犬共々格闘している最中に(原文ママ)もんどりうって転倒し肘を骨折したということである。憎き大型犬と飼い主夫婦はどこかに逃げてしまったそうだ。私の怪我は愚かな自損事故だが、これは犯罪ではなかろうか?

 自分が怪我をして、身の回りに骨折の経験者が多いことに気づいた。私の母やSさんは骨折クラブの先輩である。また、私の怪我とちょうど同じころ、吉永小百合さん(70歳)が坂道で転倒し、左手橈骨を骨折したというニュースがあった。新聞などには日本アカデミー賞の授賞式に、左手首に包帯をして出席する吉永さんの写真が載っていた。吉永さんには申し訳ないが、ちょっと親近感を覚える。骨折クラブの名誉会長にお迎えしたいくらいだ。


 ここまで書いてきて、寺田寅彦に「鎖骨」という文章があるのを思い出した。要点は覚えていたのだが、念のため読み返してみた。次のような話だ。

 寅彦の子供が、階段から落ちて怪我をした。目の上が大きく膨らみ、鎖骨も骨折しているようである。整形外科医のT博士に診てもらうと、鎖骨が見事に折れている。しかし、T博士によれば、鎖骨より気がかりなのは頭蓋骨の打撲である。内出血の有無に充分注意を払う必要があると言われたが、幸い大事には至らずに済んだ。

 ところで、鎖骨はこういう時に折れるように出来ているのだそうだ。鎖骨がきれいに折れることによって、他の臓器や骨格に大きなダメージが生じることを防いでくれているのである。

 寅彦の考察は、ここから耐震建築の話に移る。今の耐震建築では、ひたすら力学的に頑丈な構造を指向しているが、一部に「家屋の鎖骨」のような役割をしてくれる構造も取り入れてみる価値があるのではないか?と寅彦は言う。「家屋の鎖骨」が壊れることで、破滅的な大破壊を避けることができるだろう。そして文章の最後に、われわれ弱い人間が精神的にひどい打撃を受けたときに、一部の神経が麻痺して腰が立たなくなったり、病人同様の状態になって頭から蒲団をかぶって寝込んでしまったりするのも、「精神の鎖骨」が挫折する造化の妙機なのではないか、といかにも彼らしいリマークをしている。

 自身の子供の大怪我に際して、これだけの考察を加えることが出来るのは科学者の非人情を見るような気もするが、面白かったので私はほぼ正確に覚えていた。ひるがえって、自分自身が骨折するという得難い経験をしたにも関わらず、私には何のアイディアも浮かんでこない。ひたすら手術痕の痛みが引いてくれることを願っているだけだ。人間、どこかに痛いところがあると、積極的な精神状態にはなれないものだ。



                                        (April. 2016)

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