越路の周さん

「この度は、おめでとうございます」
と草平が少しあらたまった口調で言うと、周さんはカウンターの向こう側で鉢巻きを外し
「おかげさまで」
と神妙に頭を下げた。その横で、料理の下ごしらえをしていた佳奈子も手を休め、お辞儀をした。壁には、都心の宴会場で行われた開店10周年記念パーティーのスナップ写真が、ところ狭しと貼ってある。写っているのは、草平の知っている馴染みの客の顔ばかりである。

 まだ店を開けたばかりで、草平のほかに客はいない。越路は、調理場のついたカウンターが一つ、奥に小さな座敷が一つ、あとは手洗いがあるだけの、至って小さな居酒屋兼小料理屋である。
「もう10年か」
「早いもんです」
そういえば親父がまだ生きていた頃だ。若い夫婦が始めたいい店がある、といって草平の父は、家を訪れる編集者や友人、知人の誰彼となく連れていった。まだ学生だった草平も連れてこられたのだ。「越路の酒は高いぞ」と親父が書いた癖字の色紙が、長いこと店に飾ってあったっけ。

 坂口周の名前は本当は「あまね」と読むのだが、誰も「しゅうさん」としか呼ばない。歳は草平より5歳ほど上である。なにしろB29の新潟空襲を覚えている、というのである。
「へえ、あんな田舎にもB29が行ったの?」
「ちきしょう、何いってやがる。ちゃんと来ましたよ」

 佳奈子は、店ではいつも和服を着ている。年齢は草平より一つ上らしい。歳が近いので草平とはよく気が合う。共通の話題で盛り上がって、周さんにやきもちを焼かせることがある。周さんが、こういう商売をするために生まれてきたような人だとすれば、佳奈子は、亭主の生き方に黙ってついて来た女、である。周さんと店の客とが、きわどい冗談を言い合ったり、はては春歌の放吟に至ったりしても、汝らは何がそんなに面白い、といった顔でニコリともせずに澄ましている。しかし、常連客のあいだには、佳奈子の隠れたファンが多いのである。

 周さん夫婦には子供がない。周さんは多くを語らないが、不注意から最初の子供を流産し、その後、子宝には恵まれないということである。草平はしかし、二人を見ていて、子供のいない夫婦というのもいいもんだ、と思うことがある。

 越路の客は、ほとんどが常連である。そうでなければ、こういう店はやっていけない。常連客の一部は、この町の地生えの人間である。商店街の店主であったり、近くに事務所を構える公認会計士であったりする。そして、たいていが互いに幼馴染みである。
 草平の生まれ育ったこの町は、都心への交通の便がよく、物価も安いので、サラリーマンや学生目当てのアパートが多い。よその土地から、転勤でやって来た独身者や単身赴任者、東京の大学に通う学生などが、もう一つの常連客のグループになっている。そういう常連客の中には、東京を離れた後も、懐かしがって店あてに絵葉書などを送って来る人もいる。越路が繁盛しているのは、周さんの料理の腕がよいためだけでなく、こういった雰囲気作りがうまいからだと、草平は考えている。

 草平は、最古参の常連ではあるが、それほど頻繁に出入りしている訳でもない。開店10周年のパーティーにも出席しなかった。周さんとは、これから先、長い付き合いになると感じているので、それでいいと思っている。しばらく御無沙汰して、久しぶりに店に顔を出すと、新しいお客さんに挨拶される。そんなとき、草平は
「私は、ここの酒を誰よりもたくさん飲んでるんです」
と自己紹介することにしている。 

 実際、昔はよく飲んだものだ。学生時代の友人と3人で、ビールの大ビン24本を空けたこともある。その時、草平は、ビールというものは、血中のアルコール濃度が一定値に達したあとは、いくら飲んでも、ただ体内を流れて通過して行くだけであって、従って、無限に飲み続けることができるものだ、ということを発見した。24本でやめたのは、佳奈子がそこで、
「もうお終い、看板よ」
と宣言したからにすぎない。あんな愉快な酒を飲むことはもうあるまい。

 10年の間に、いろいろな人物がこの店の常連になり、そして去っていった。上手いんだけど、どうしても北島三郎のモノマネになってしまって、いつまでも芽の出なかった演歌歌手。英会話の教師をしながら古典落語に凝っていた変なアメリカ人。酔うと故郷の民謡を一曲だけ歌ってくれた若い孤独なサラリーマン君は、転勤でいなくなった。

 レイコもそんな一人である。男の常連客にはさまれて、鼻にかかった、けたたましい早口でおしゃべりしている女がいた。それがレイコであった。レイコは、びっくりするほどの美人だった。スタイルも申し分ない。「絶世の美女」という古臭い表現が、とっさに草平の頭に浮かんだほどである。しかし、それにしては、お世辞にもお上品とはいえない話し振りである。草平は、レイコの容姿と、その態度物腰との間の、あまりの落差の激しさに度胆をぬかれた。これは何かの間違いではないか、と思ったほどだ。

 レイコと何度か話すうちに、彼女が決して頭が悪いわけではないことが、草平にも分かってきた。ただ、底抜けにお人好しで、その上、頭に浮かんだことを胸におさめておけないのである。レイコは人気者で、馴染みの客達に「レイコ、レイコ」と呼び捨てにされても平気だった。タバコを吹かし、楽しそうにおしゃべりして、ケラケラと笑った。レイコは、近くのアパートに一人で住んでいた。

 レイコは、ネクタイの出張販売をして生活しているのだ、と草平に言った。
「出張販売って何ですか?」
「あんた、出張販売を知らないの?デパートのフロアを使わせてもらって売るのよ。ほら、新しい洗剤だとか、化粧品だとか売ってるでしょ」
「ああ、あれ、デパートの店員じゃないんですか?」
「違うわよ。出張販売」
要するに、卸し元の会社から商品を預かり受け、契約したデパートなどに出かけていって、売り場の一部を借りて売るのであるらしい。固定給のほかに、売り上げの中から、一定の割合いで収入が得られる。レイコは、宇都宮とか水戸とか、関東一円のデパートが担当だと言った。

 ある時、店に入ると、レイコが客に交じってお酒を飲んでいた。仕事から、いま帰ったきたところだと言う。足もとに大きなトランクが置いてある。商品のネクタイが入っているのだろう。草平は、レイコの華奢な身体と、重そうなトランクを見くらべた。レイコは、さすがに疲れているようである。

 埃っぽい田舎町の商店街。「絶世の美女」が、ネクタイの詰まったトランクを、片手に下げて行く。小さなデパートに入り、フロアの片隅の商品スタンドにネクタイを並べる。鼻にかかった声でお客さんに呼び掛ける・・・。どうもしっくりこないし、何となく痛々しくもある。

「ずーっと、この仕事やってるの?」
「そうよ、なんで?」
レイコは、何をつまらないことを聞く、という顔で答えた。
 レイコなら、雑誌のモデルか、すくなくとも銀座かどこかのクラブのホステスぐらいはつとまるだろうに、と草平は腹の中で思った。高級クラブのホステスが、出張販売員よりましな仕事かどうかは、別としても。おっと、それにレイコが口を開かなければ、の話だが・・・。


「ねえマスター、あたしってどうしてダメなのかなあ。男運が悪いのかしら?」
レイコは周さんに話しかけた。レイコは結婚したいのである。

美貌のせいだよ」
かもね。きゃははは」

 それからしばらくして、草平が仕事の帰りに越路に寄ると、カウンターの一番奥にレイコがいた。あとは、見知らぬサラリーマン風の男が、一人で飲んでいるだけである。どうも、レイコの様子がおかしい。カウンターに両肘を突き、ガックリと首をうなだれている。
「あれ?どうしちゃったのかな」
草平は注がれたビールを飲みながら周さんを見た。周さんは、草平に顔を近付け
「また捨てられたんだって」
と言った。気の毒だが、多分に可笑しくもある、といった複雑な表情である。佳奈子は
「お店に来た時は、もうすっかり出来上がっていたのよ」
と言った。レイコは、本当にうちひしがれていた。レイコが静かだと、実に異様な感じがする。

 そのうちに、若いサラリーマン風の男が、レイコの隣に席を移し、何か話しかけ始めた。耳元に口を近付け、くどくどとしきりにかき口説いている。レイコは、ほとんど正体を失っているようだ。男の意図は明白だった。現に、タイトスカートの上からレイコの太腿のあたりに手を這わせている。
 草平が、たまりかねてそちらに向き直り、男に声をかけようとした時、周さんが言った。
「佳奈子、お客さんが気分悪そうだ。お前、お宅までお送りしてくれ」
合点、とばかりに佳奈子がカウンターの中から出てくる。そして、レイコを介抱するふりをしながら、男から引き剥がすように店の外に連れ出してしまった。

 周さんは、時と場合によっては恐い顔もできる人である。男が、気押され鼻白んで、代金を払って帰ってゆくと、
「うちはそういう店じゃないんだ」
と吐き捨てるように周さんは言った。
「あの人、どうなっちゃうのかなあ」
「あれはあれで、何とかやっていきますよ」
周さんは、まだ機嫌が悪かった。

 結局、これが草平がレイコの姿を見た最後になった。一月ほどたって、越路の暖簾をくぐった草平は、レイコが名古屋に移っていったことを知った。
「名古屋ですか」
名古屋の街角にトランクを下げたレイコを立たせてみても、やはりぴったりこない。結局、日本中どこを探しても、レイコの面影がしっくりくるような町はありそうになかった。

「草平さんにも、よろしくって。これ預かってますよ」
周さんは、戸棚の奥から紙袋を取り出した。ヒャーと客の間からひやかしの声があがった。レイコはお別れに、店の常連の皆に、商売品のネクタイをプレゼントしていったらしい。あれで、けっこう気を使っていたのだ。

 紙袋の中には、2本のネクタイが入っていた。それはどちらも、どこかチグハグな感じで、草平の持っているどの背広にも合いそうになかった。

                          (Aug 2001)

目次に戻る