記憶と忘却

 最近、よくものを忘れる。一番よく忘れるのは論文のレフェリーレポートや書類の提出締めきりである(これ、半分ジョーク)。会議の予定も片っ端から忘れている。事務の人から「ほかの先生方、皆さんお揃いです」と少しとんがった声で電話がかかってきて、慌てて会議室に駆けつける。

 こんな私でも若い頃は記憶力は良かった。高校1年の頃、自分でも不思議に思い、記憶力の限界を試そうと数学の教科書の後ろについていた対数表を暗記してみたことがある。さすがに馬鹿らしくなって、半分ほど覚えたところで止めた。これは別に自慢しているわけじゃなくて、誰でも驚異的な記憶力を発揮する時期があるということだ。そういう時に大量の知識を詰め込んでおかないと、一生、頭は使い物にならないのではないかと思う。

 記憶のメカニズムは不思議だ。情報は脳のどこかに物理的・化学的変化として貯えられる。私たちは、経験したことの大半を忘れるが、これは脳の中からその痕跡が失われるわけではなくて、単にそこへのアクセスが断たれるだけらしい。パソコンのファイルを消去しても、ハードディスク上にはその記録は相変わらず残っていて、アクセスできないだけの状態になるのと似ている。子供の頃に大切にしていた玩具や本の思い出が、何かのきっかけで、その手触りや匂いや、その頃の家の中の様子まで含めて、ありありと蘇ってくるという経験をした人は多いだろう。アクセスが突然、回復したのである。私たちの脳の中には、膨大な記憶がアクセス不能の状態で眠っているのかもしれない。

 私にとっての「私」とは私の記憶の総体である。それが完全にかつ永久に失われた時が私にとっての私の死である。深夜、ふと目覚めて、自分が何であって今、どこにいるのか分からなくなることがある。いわゆる見当識の失われた状態である。昼間、組織的に結び付けられていた記憶が解体されて、暗闇の中にバラバラに横たわっている。目覚めとともに、それらが急速に立ち上がり再構成されて、世界の中の自分の位置が確定する。この短い立ち上がり時間中は、ひどく不安だが、また独特の浮遊感をともなって快くもある。落ち着く先は、退屈で雑駁な現実であり、その中にいるくたびれた自分である。

 事故や病気で海馬など脳の一部が傷つくと記憶障害が起きることがある。よくある症例は、古い記憶は残っているが、新しいことを全く覚えられないというものである。テレビの番組で、そのような障害を負った方の生活を見たことがある。まだ若い男性だったが、日々、成長してゆく自分の子供の顔が覚えられないのである。会う度に毎回、確認しなければならない。奥さんの顔は覚えているらしい。まことに気の毒としか言いようがない。

 反対に、見聞きしたことの記憶を全く忘れ去ることが出来ないという脳の障害を持つ人もいる。起きてから寝るまでに経験する、ありとあらゆる事柄を、映像として細部まで覚えているのだという。先ほどのパソコンの例えで言うと、ファイル消去の機能が働かないのである。古くなった記憶は、上書きされ細断化されて行くのだろうか? それともそのまま残っているのだろうか? 彼にとって思い出とは何だろう? 時間の概念はあるのかしら? 実に想像を絶する世界だ。こういう世界に住む人に、死ぬまで安息が訪れるとは思えない。まるでギリシャ神話に出て来る何かの刑罰のようだ。

 だから人間にとって、ものごとを記憶する能力と同時に、ほどよく忘れる能力も大切なのだ。これを「忘却力」と名付ける。研究者にとっても、記憶力が重要なことはもちろんだが、忘却力も必要だ。本質に関係のない枝葉の知識を捨てることで、初めて何かが発見できる。私は近頃、とみに忘却力が向上した。これからきっとよい研究ができるだろう。

                               (Jan. 2006)

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