ケータイの遺伝子

 暴走してきたタンクローリーが交差点で横転し、信号待ちをしていた女性が押しつぶされて亡くなった。一緒に立っていた別の女性はとっさに逃げて無事だった。亡くなった女性は携帯電話のメールに夢中で、危険に気がつかなかったのである。痛ましい事故だが、避けられた死だったかもしれない。
 携帯メールを見ながら無人踏切りに入っていって、そのまま電車に轢かれて死亡するという事故が相次いで起こった。そのうちの一件では亡くなったのが有名人の子息だったから、少し話題になった。およそ人間の死に方で、これほど馬鹿げた死に方もないだろう。

 電車の中で、大勢の人が携帯電話の画面を見つめ、一心不乱に指を動かしている。これは一種異様な光景である。当人達は「携帯の世界」に浸りきっているから異様さに気づかない。他人と同じ格好をして同じ動作をするのが恥ずかしい、という気持ちもないらしい。
 先日、新幹線で大阪から東京に出張した時、隣に座った青年が携帯マニアだった。列車が動き始める間も無く携帯を取り出し、画面を覗き込んで、なにやらせかせかと指を動かし始める。それから、パチンパチンと片手で蓋を閉じたり開けたりの動作を行う。ひとしきり携帯いじりが終わると、バッグに仕舞うのだが、ものの3分もするとまた取り出して、画面を覗き、パチンパチン。以下、これの繰り返し。これはもう、完全な中毒患者の症状である。列車が名古屋について、この人物がそそくさと降りて行くまでの間、私は
「やめろ〜〜」
と叫んで携帯を取り上げたくなる衝動をこらえるのに苦労した。

 人々がこれほどまでに携帯電話に夢中になるのはただごととは思えない。この現象を説明する私の仮説は、人間には本来「携帯の遺伝子」なるものが備わっていた、というものである。「携帯の遺伝子」は人類のDNAの中で、長いこと孤独に発現の機会を待っていた。クロマニヨン人は、洞窟の入り口で月を眺めながら、右手の親指がかすかに疼くのを感じた。古代ギリシャ人は、片手で握れて小さな突起が20個ほどついた何かをいじり回したいという衝動を唐突に感じたが、そのわけは分からなかった。はるか東方の島国で、縄文人は赤土をこねまわしながら、小さなポツポツを次からつぎへと親指で押さえる動作に喜びを感じたが、それが何故なのかは知らなかった。そう、それが「携帯の遺伝子」のなせるわざだったのだ。数十万年の眠りの後、「携帯の遺伝子」はいま花開いたのだ。

 大阪のおばはんは、自転車の前カゴと後カゴに一人ずつ子供を載せて、片手で携帯を見ながらやって来る。電車の運転士も携帯メールを見ながら運転する。そのうち医者が携帯メールを打ちながら外科手術するようになるだろう。

                               (Aug. 2006)

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