時代

 かはらざる世を退屈もせずにすぎ

 以前にも書いたことがある話題だが、芭蕉七部集中「ひさご」の巻は元禄時代に編まれた。そこに収められたひとつの連句の中に、このくだりが出てくる。これに対する付け句は

 また泣き出だす酒のさめぎは

である。誰がどの句を詠んだか、手元に資料が無いのでわからないが、それはどうでもいい。芭蕉がオーガナイズした連衆によって詠まれた。連句とはそういう芸術なのだ。

 それよりも、なんという感覚の鋭敏さだろうと私は思う。自分たちが現に生きている元禄という時代を、わずかな文字で見事に切り取って見せてくれる。ある種のすぐれた報道写真のようだ。

 ひさごが編まれてから、百数十年の歳月がながれ幕末動乱の世になった。高杉晋作はその幕末に生きた政治的・軍事的天才である。彼はクーデターによって長州藩を佐幕から倒幕に転回させ、明治維新につながる歴史のスイッチを入れた人物である。病を得て三十歳たらずで死んだ彼の生涯は、まさに「時代を駆け抜けた」としかよべないような慌ただしいものだった。

 その高杉晋作が詠んだという辞世の句が残っている。私はなぜかひさごの「かはらざる世を」の句を読むと、反射的にこれを思い出すのである。

 おもしろきこともなき世をおもしろく

晋作はここまで詠んで力尽きたという。彼を看取っていた野村望東尼という勤王の尼さんが

 すみなすものはこころなりけれ

と続けて辞世の歌として完成させたということになっている。

 どこまでが史実であるか分からないけれど、もし本当とすれば、望東尼という人は思想に凝り固まった案外つまらない女性だったのではないかという気がする。せっかくの晋作のダンディズムを無にするよけいな仕業だ。あるいはそれが幕末という「思想の時代」だったのだろうか?

 私たちは時代の中でしか生きられない。時は過ぎ去り歌は残る。のちの時代は平成の世にどんな歌を見出すのだろうか?


                                           (Feb. 2012)

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