いでそよひとを

 子供の頃から、家では正月にはよく百人一首のカルタとりをやった。というと、一応まともな家庭のように聞こえるかも知れないが、実は、正月に我が家で最も盛んに行われたのは、「スーテンパン」という、父親が外国から持ち帰った発祥地不明のバクチである。当局の手入れを受ける恐れがあるので、ここでは、あまり詳しく書くわけにはいかないが、これは真剣勝負であった。一族の子供達(母方の親戚は、皆、近くに住んでいた)も、小学校高学年に達すると一人前に扱われ、お年玉を元手に、大人に交じって勝負に臨むのである。これは今日にいたるまで続いており、歴代の子供達は、こうして賭け事の面白さと恐ろしさを、身をもって学びながら大人になっていったのである。イヤハヤ。

 まあとにかく、我が家では百人一首もやった。母が娘時代に使っていたという古いカルタがあった。親戚や年始に来た父母の友人達を交えて、源平に別れて遊んだ楽しさは忘れられない。「むすめふさほせ」の一枚札だとか、「ひと」で始まる下の句には要注意、などということも覚えた。とはいえ、かような家庭であるから、飛び交うものはあまり品のよくないジョークであり駄洒落である。
  末の松っちゃん涙ぽろぽろ(末の松山浪越さじとは)
  つらぬきトッペン卵に目鼻(貫きとめん玉ぞ散りける)
  ハゲになれとは祈らぬものを(激しかれとは祈らぬものを)
思うに「カルタ会」のロマンチックな雰囲気では、あまりなかったな。

 小倉百人一首は、貴族文化の中から生まれながら、長く庶民にも親しまれ、日本人の知識として、一種の「共通の了解」を形作ってきたのだろうと思う。さもなければ、「ちはやふる」のような落語が生まれる訳がない。負けず嫌いで知ったかぶりの家主さんがでっち上げる、吉原のおいらん千早と相撲取り立田川の悲恋(?)物語を、私たちは笑うが、私の理解だって似たようなものだった。末の松ちゃん涙ぽろぽろ、のレベルである。

 長ずるにおよんで、歌の意味が少しずつ分かってきたのは面白かったが、中には、相当濃密なる男女関係を思わせる歌もあるのだ。以下、誤訳かも知らんが。

 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそをしけれ(周防内侍)
 (春の夜のたわむれに、貴方は「手枕を貸してあげよう」と手を差し伸
  べられたけれど、そんなところを人に見られて噂にでもなったら困り
  ますわ。みんな夢の中の出来事だったような気もするけれど・・・。)

 逢いみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけれ(中納言敦忠)
 (二人が結ばれてから、貴女への思いはいっそう深くなったけれど、
  貴女の心はますます分からなくなるようだ。)

 嘆きつつひとりぬる夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る(右大将道綱母)
 (昨夜も、夫である貴方は来てはくれなかった。ため息をつきながら、女ひとり
  寝る夜の長さを、お分かりになって? キーッ!)

こういうもので遊んでいたんだな、中学生の私は。

 高等学校に入ると、同じ定家撰でも新古今の世界に惹かれるようになり、百人一首は、まあ馬鹿にしないまでも、口にするのが恥ずかしいような周りの雰囲気で、忘れてしまった。「秀歌ばかりではない」と、解説書に書かれてもいたし。再び偏見なしに百人一首に興味を持つようになったのは、大学に入ってからである。

 いま、好きな歌は何かと聞かれたら、つぎの三つを挙げたい。こういうことは、ちゃんと参考文献を調べて書くべきだろうが、面倒だから、そんなことはしない。皆、私の勝手な解釈である。

 淡路島通ふ千鳥の鳴く声にいく夜寝ざめぬ須磨の関守(源兼昌)

 はじめは、理屈を述べているだけのつまらない歌だと思っていたが、あるとき、歌の中から千鳥の鳴く声が聞こえてきた。いま、この歌を思い浮かべると、月の光の砕け散る波間を渡ってゆく数限りない千鳥の鳴き声が聞こえる。これは、その中で音が鳴っている不思議な歌である。

 久方の光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ(紀友則)

 こちらは「淡路島」とは対照的に、まったく無音の世界。春の日の光の中で、音も無く散り続ける花。古来、桜の花を詠んだ秀歌は多いが、私は、ただ花が散っている、とだけ詠っているこの歌も好きだ。青春の儚さよ。

 有馬山猪名の篠原風吹けばいでそよ人を忘れやはする(大弐三位)

 上の句全体は、下の句の「いでそよ」を引き出すための枕詞のようなものにすぎない、とよく説明されることがあるが、私はそうは思わない。誰でも、この歌からは、笹原を吹き抜ける風と光とを感じるだろう。そして、少し理知の勝った女性の面影をも。
 「いでそよひとをわすれやはする」とボソボソ呟いて、この歌の良さを教えてくれたのは、18歳の頃に出会った友人である。今は数学者になっているその男の思い出のためにも、これは私にとって忘れられぬ歌である。

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