閉じられた宝石箱

 翔は17歳で死んだ。そのとき、由梨江は18歳。ついでに言っておくと僕は20歳になっていた。僕たちは、未来しか見ていなかった。それが明るかったから、などと僕は言わない。20歳の人間にとって、未来が明るいなんて、よほどの馬鹿ででもないかぎり言えやしまい。

 僕が最後に、病院に翔を見舞ったとき、翔はベッドの上に起き上がり、ニコニコ笑っていた。普段から色白の顔が、よけいに白く透き通っていた。元気そうだけど、もう手のほどこしようがないのだ、と僕は聞いていた。その時、僕たちが何を話し合ったか、全く覚えていない。覚えているのは、そのあと、病院の廊下で由梨江が僕にすがりついて泣いたことだけだ。
「わたしの翔が死んでしまう」
由梨江の肩を抱いたまま、僕は何も言うことができなかった。こんな理不尽を受け入れるには18歳や20歳は若過ぎるのだ。

 それは死の季節の最後に訪れた突然の別れだった。その冬、僕の身の回りで、本当にたくさんの人たちが死んだ。そういうことって時々あるものだ。

 医者の残酷な見立てのとおり、翔の死は正確にやってきた。少し疲れた、と言って眠ったまま、2度と目を覚すことはなかった。わずか1ヶ月の入院生活だった。奥の座敷に寝かされた翔の死顔が安らかで、生きていた時と同じように美しかったので、僕は、少しだけほっとした。


               ◇ ◇ ◇ ◇


 僕が、翔と由梨江のどちらを、より深く愛していたか、そして、由梨江が僕と翔のどちらをより愛していたか、それはもう今となっては分からない。僕たちは、子供の頃からいつも3人一緒だったから。(どうも、僕の家と由梨江たちの家は、遠い親戚すじにあたるらしいのだが、これが祖父母に何度説明してもらっても、僕の頭には入らないのだ。)由梨江と翔の家の宏大な庭で、それから、まだ僕たちの家の近くに残っていた野原や雑木林で、くる日もくる日も僕らは遊び続けた。僕の一番古い記憶のひとつは、夏の日に芝生で由梨江の父が撒くホースの噴水を、3人とも素っ裸で浴びている情景だ。これを思い出すと、僕は今でも笑ってしまうのだ。

 このころの2、3歳の年齢の差というものは、すごく大きいから、遊びではいつも僕がリーダーだった。副官は由梨江、翔はみそっかすだったけれど、この二人の力関係は、年齢が上がるにつれてすぐに逆転してしまった。何と言ったって、どこまで高く木に登れるかがものをいうのだ。僕らは、ありとあらゆる物語を紡ぎ出し、地の果てを冒険して回った。このころ、由梨江の父は
「おや、由梨江は男の子になったのかな?ボクっていうよ」
と笑って言ったことがある。この癖は、由梨江が中学校に入るまで抜けなかったんじゃないかと思う。

 永遠に続くかと思われた子供時代が、ようやくおわりに近づくと、由梨江はなんだか急に綺麗になって、お淑やかになってしまい、僕は裏切られたみたいで、おおいに不満だった。翔はスンスンと背がのびて、あっという間に姉を抜き、僕よりも高くなった。それでも僕たちは、過ぎ去った時を取り戻そうとするかのように、よく3人でデートなんかしたものだ。翔のしなやかな足どりを思い出す。翔が由梨江と並んで歩くと、どう見てもお似合いのカップルだった。振り向いて笑う二人に、僕は拗ねてそっぽを向いたりした。

 翔は、もう以前のように何でも僕の真似をしたり、僕にまとわりついたりは、しなくなっていた。ひとりでじっと、何かに耳を澄ませているようだった。僕たちはそれぞれ、何かを待っていたんだと思う。多分、出発の合図を。それはとうとう翔の所には、やって来なかったんだけれどね・・・。


               ◇ ◇ ◇ ◇



 翔の葬儀のときも、それ以後も、由梨江は一度も泣かなかった。泣いてくれたら、涙を流してくれたら、どんなに救われたことだろう。葬儀のあと、僕は由梨江と二人だけで会うことは、ほとんど無かった。忙しかったから、というよりも、会うのが何だか不安だったのだ。それで、由梨江の19歳の誕生日に、僕が久しぶりに由梨江を街に誘ったのは、責任を果たすような気持ちも少しはあったわけだ。

 待ち合わせの場所に立っていた由梨江は、少し痩せて、目ばかり大きくなっていた。なぜ、と答えのない問いを繰り返す夜々を、僕は思った。僕は、どうしてもっと早く会ってやらなかったのだろうと後悔し、胸が痛んだ。

 世の中は、夏の始まりの活気に満ちて輝いていた。僕と由梨江は、恋人同志のふりをして、腕を組んで歩いていった。いつもの、あの翔の足音が聞こえるような気がした。僕は、翔に内緒で、由梨江を誘い出して二人だけのデートをしたことなんかを、少し苦い気持ちで思い出したりした。僕たちは小声で、なるべくとりとめもないことを話しながら、難破しかかった船みたいに、若者でにぎわう街を歩き回った。

 坂道の上のレストランに着いた時も、夏の夕暮れはまだ明るかった。僕はなけなしの小遣いをはたいて、由梨江にすこしばかり豪華な夕食を御馳走してやるつもりだった。僕たちはボオイに案内されて、窓の近くのテーブルについた。
「由梨江はまだ未成年だけど、今日はまあ、いいだろうね」
僕はメニューを見ながら、ワインを注文した。

 ボオイがワイングラスをテーブルに並べていった。僕と、由梨江と、そして誰もいない二人の間の席に。

 並べられた3つのワイングラス。

「あの子が・・・翔が来ている」
かすれた声で由梨江が叫んだ。

 そんなことはない、と僕は、言うべきだったのだろうか。間抜けなボオイが、何か勘違いしていっただけさ、と。しかし、僕にできたのは、テーブル越しに由梨江の手を握りしめてやることだけだった。冷たい、震える手を。翔が由梨江を連れ去ってしまわぬように念じながら。

 ワイン係の男がやってきて、僕と由梨江のグラスにワインを注いでくれた。それから、3つ目のグラスを不審そうに見つめた。僕は、それにも注いでくれるように、男に頼んだ。ワイン係の男は、3つ目のグラスにも、うやうやしくワインを注いだ。

「翔も、まだ未成年なのにね」
そう言って、笑おうとした由梨江の目に涙が浮かび、涙は次からつぎへと溢れ出して頬を濡らした。とうとう由梨江は手で顔をおおって嗚咽しはじめた。誰もいない席の白いテーブルクロスの上で、ルビー色のワインを注がれたグラスが輝いていた。

 翔、おまえは短かったけれど17年の生をまっとうしたんだ。そして僕たちに、たくさんの思い出を残してくれた。ありがとう。 でも、さよなら。

 去ってゆく軽やかな足音が、僕の耳に聞こえたと思う。

 レストランの客たちは、きっと僕のことを、女の子を泣かせている悪い男と思ったことだろう。もし、その男も顔をクシャクシャにして、一緒に泣いていることに気づかなかったら。 そして、逝ってしまった者が残した3つ目のワイングラスに気づかなかったら。

                                (Aug. 2001)