誇りと良心

 あらゆる自然科学の分野の中で、実験と理論が完全に分業化されているのは物理学だけである。その理由は単純に、物理の理論は実験の片手間でやるにはあまりにも難しいからだと思う。逆もまたしかり。断っておくが、単に出来合いの理論を使って何かの計算をする事は「理論家」の仕事とは呼ばない。理論家の仕事は理論を発見することである。理論と実験の双方で一流の仕事が出来た最後の巨人はフェルミだと言われている。

 理論物理というジャンルが出来て、そこに属する研究者の数がそこそこ大きくなったおかげで、需要と供給の関係がその集団内部で存立するようになった。平たく言うと、「理論のための理論」しかしない理論家が生活できるようになった。世間の人にはあまり知られたくない事実だが、一生の間に一度も実験データと関わることなく終わる理論家も結構いるのだ。それは一概に悪いことではなくて、「理論のための理論」が新しい発見につながり、いつの日か自然の理解に役立てばよいのだ。まあ、そんなことは滅多にないけどね。

 大半の理論家は、さすがに実験からまったく遊離しては自分の存在理由はなくなると、心の片隅ぐらいでは意識している。一方では実験データの解析が自分の全使命だと信じて、実験家と密着して仕事をしている理論家もいる。これを「実験のための理論」と呼ぶことにすると、「理論のための理論」を最左翼「実験のための理論」を最右翼として、多くの理論家はこの数直線上のどこかに位置することになる。

 私自身は左から測って7:3ぐらいの位置で仕事をしてきたように思う。「理論のための理論」も嫌いじゃない。しかし、最もスリリングな経験をすることが出来るのは、何といってもホヤホヤの実験データと渡り合って理論を作る時だ。ところで、定義上、理論が間違えることはあり得ない。つまり、計算違いや推論の間違いをしたら、そんなものは理論ではないからだ。だから「理論が間違えた」というとき、それは「自然現象の説明として正しくなかった」という意味である。こういう間違いは初めの一歩で起きる。最初のボタンをかけ違えたら、いくら高度の計算をしてもダメ。だからスリリングなのだ。

 実験の近くで仕事をしてきたおかげで、実験家のお友達がたくさんできた。実験家の話を聞くのは楽しいし、何より理論家の飯のタネが転がっている可能性がある。理論家も食うために鋭敏な営業センスを磨かないといけない。

 実験家に求められる基本的な資質は、実験の精確さつまり良心だろう。その上で、高度の技術や嗅覚の鋭さが生きてくる。ある時、某有名大学の大規模研究室に所属する若手研究者の講演を聞いたことがある。ここの教授は国から巨額の研究資金を得て流行の研究を行っている大ボスである。講演者は、最先端の実験装置を用いて得た実験データを次から次ぎへと繰り出し、これはこう、これはこうと物質中で何が起きているのか説明してくれたが、私はひたすら退屈していた。勝手なストーリーばかりで確実な話が何一つないからだ。近頃、この種の研究が多くないか?

 しかし、こういうのは結局消えるからどうでもいい。良心的な研究者にとってさえ、実験がいかに難しいかを示すエピソードを、ミグダルが書いていた(翻訳が出ているはず)。非常に印象深い話だったので、よく覚えている。それは、ある原子核実験の研究室の話である。その研究室は質の高い良心的なデータを出すということで定評があったのだが、ある時、核分裂で生じた粒子の持つエネルギースペクトルが、きれいな等間隔のピーク構造を持つという結果を発表した。等間隔のピークは評判になったが、理論家は誰もそのスペクトル構造を説明できなかった。ミグダルはいう。「これは理論家が実験を説明できなかったことを誇ってよい例となった」なぜなら、等間隔のピークなど存在しなかったからである。

 ではなぜ、そんな間違いを犯してしまったのか?あるとき、その研究室で、崩壊核から出る粒子のエネルギーが等間隔のスペクトルを持っているらしいという予備的なデータが取れた。これは面白い、と皆興奮し、詳しい追試が行われた。実験は慎重に行われたが、一つだけ問題があった。測定で等間隔のピークが取れた時は、そのデータを採用し、等間隔から外れていた時は、実験装置の較正(電圧などの点検と誤差の修正)を行ったのである。実験装置の較正は、やらないよりはやった方がよい。しかし、それを恣意的に行った。ただそれだけの影響が、積もり積もってデータに統計的な偏りを生んでしまったのである。「定評のある研究室だったのだが」とミグダルは結んでいる。

 実験家に良心が求められるなら、理論家には「その実験は理論的に説明できない」と、時には言い切る誇りが必要かも知れない。しかしこれが難しい(何しろ飯のタネですからね)。モデルに含まれるパラメータを微調整して、観測データと寸分違わぬ理論曲線を出してくる理論家もいるが、私は滑稽だと思っている。実験データには誤差と精度の限界があり、理論には必ず近似がある。両方とも不完全だ。不完全なもの同志が完全に一致するなどということは殆どあり得ない話である。しかし、自分にも覚えがあるが、実験に合わせたいという誘惑は強いのですね。
「君、パラメータをちょっとだけ変えて、このピークをもう少し高くできないかね?」

 もっと困るのは、起こっている現象の解釈に関してパラダイムシフトがあった場合だ。実験事実を理解する描像(モデル)が、ガラリとひっくり返ることが、物理の世界では時々ある。これは実験の進歩による場合もあるし、あるとき、突然に誰かが間違いに気づくということもある。それまで整合的に説明できなかった多くの観測データが、新しいモデルでピタリと説明されるようになる。その一番劇的な例は天動説から地動説への転換である。それほどでなくとも、コペルニクス的転換のミニチュア版のような出来事は、今でもよく起こっているのである。さてそうなると困ったことに、今となっては間違った描像に基づいて「実験を説明した」と称する理論が山ほど残される・・・。いったいどうしてくれるんじゃい。

 しかし、理論は間違えることが出来るから面白いのだ。きれいに間違えた理論は、むしろ良い理論だとさえ言いたい。恩師のT先生はあるとき
「カヤヌマ君、間違いは皆、忘れてくれますから」
と慰め顔で私に言われた。

 間違えることの出来ないab initio 計算は、だから私には退屈な代物だ。役に立つ技術だとは思うが。物理の後追いをして「公理化」と「証明」に腐心している一部の数学はもっと退屈だ。定義上、「間違えることの出来ない」学問の最たるものが数学である。数学の面白さはもっと別のところにあるのだろうが、これは話が脱線するのでやめておく。

 物理の世界は理論家と実験家が共存していることで、俄然、面白くなっている。どちらの側にも「職業上の人生智」が必要である。誰にでも確実に取れるようなデータでは勝負にならないから、実験研究の最先端の現場では相当きわどいことをやっているはずだと想像する。そういう意味でも、理論家にとって実験家との付き合いはスリリングである。宝の山かガセネタか?私はよいお友達に恵まれてきた。私は今でもスリルを楽しんでいる。

 

                         (Dec. 2007)

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