ひさご

 芭蕉七部集では「ひさご」が良い。「冬の日」は、謎めいた句が多すぎて、正直言ってよく分からない。「猿蓑」が傑作であることは認めるが、私は「ひさご」の明るさと夢幻感を好む。
 連句では、どの季節から始まっても四季を経めぐり、人事と恋を詠み花の座から春の句でめでたく巻を閉じる。それでも初句の季が全体の雰囲気を左右していることが多いような気がする。「ひさご」が明るく穏やかな感じを与えるのは、春の句で始まるのが多いためかも知れない。むろん、国文学のズブの素人の言うことなど、どなたも信じるには及ばない。

 「ひさご」には、有名な「木のもとに・・・」の句で始まる巻もあるが、私は

「いろいろの名もむつかしや春の草」
「うたれて蝶の夢はさめぬる」

で始まる巻が好きだ。とくに

「此村の広きに医者のなかりけり」
「そろばんをけばものしりといふ」
「かはらざる世を退屈もせずに過ぎ」
「また泣出す酒のさめぎは」

のくだりにくると、なぜかこちらも涙ぐましい気持ちになる。読むたびに同じ感覚を味わうのが不思議だ。

 モーツァルトやバッハの曲で、何ともいえず好きな箇所がある。他人に説明のしようがないので黙っているのだが、曲の進行につれて、私しか知らないそのフレーズが次第に近づき、鳴らされ、通り過ぎて行く。その時に感じる一瞬の歓びに、それは似ている。

 多分、それは時間の推移の感覚と結びついているのだろう。連句 は主題が滞ることを極端に嫌う不思議な文芸だ。それが五七五七七の繰り返しが生むリズムと絡み合って、独特の時間の流れを生み出す。この巻の中を流れている時間のリズムと、読む側の意識の流れがレゾナンスする感じと云おうか。「かはらざる・・・」から「また泣出す・・・」への付け方の絶妙さ。ところで、ここは二句目の胡蝶の夢(もちろん、荘子の故事をふまえているのだろう)と遠く照応しあっているのはないだろうか。鋭敏な耳だけが聞きとることのできる主題の変奏。だが、これはおそらく私の妄想であろう。

 「ひさご」の初版は元禄3年(1690年)刊となっている。戦国の世は、すでに遠い。芭蕉をはじめ、この時、歌仙を巻いた連衆は「かはらざる世」がこの後、200年近くも続くことを、予感していたであろうか。

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