輝けるヘマ その2 遺伝のアトム 

 地球上の生命の驚くべき特性はその多様性と適応性である。地球上には、現在、870万種の生物がいると考えられている。これらの種が約40億年前にたった一つの生命体から始まったのだ。

 人間を含め、生物の身体や機能はあまりに精巧に、そして環境にみごとに適応してできているから、これらの生物がひとりでに生まれたのではなくて、誰かの意志が働いて「造られた」のだと考えたくなるのは自然だ(インテリジェント・デザイン)。猿がタイプライターを出鱈目に叩いて、シェークスピアのソネットを偶然叩きだすことなど考えられもしないと言うわけだ。

 インテリジェント・デザイン的な考えは、おそらく世界中の民族の創世期神話に共通していることだろう。ヨーロッパでは、キリスト教のドグマとなった。ちなみに1625年に英国の大主教になったジェームズ・アッシャーの「厳密な理論」によれば、世界は紀元前4004年10月23日の前夜に創造された。すべての生物はその時に神によりつくられ、以後不変だという。870万種では神様もさぞ忙しかったことだろう。

 

 人間はわずか150年前まで、この考えの上に惰眠をむさぼってきた。1859年にロンドンで出版された一冊の本「種の起源」がすべてを変えるまで。ダーウィンはほとんど彼一人の力で、人間の生命観つまり世界観を変えてしまったのだ。こんなことは人類の歴史の中でも滅多に起こることじゃない。

 そのダーウィンがどんなポカをしたのか?

 生命の進化の話は私も好きで、スティーブン・ジェイ・グールドの本などは「ワンダフル・ライフ」も含めずいぶん読んできた。面白いのだけれど、いつもモヤモヤ感がぬぐえなかった。グールドは熱烈なダーウィンの徒である。私はダーウィンの進化論が、突然変異と自然選択の二本の柱からできていることは知っていたが、しかし、何となく納得できない感じがあったのだが、それがなんだったのか今回、リヴィオ氏の本を読んで分かった。もしかしたら、いや多分、常識の無さをさらけ出すことになるかも知れないが、ダーウィンの理論に何が欠けていたのか、本の内容を紹介してみよう。

 

 ダーウィンは長年の観察から、生物の種は決して未来永劫にわたって一定不変ではなく、長い時間の経過とともに、新しい種が枝分かれしていくことを見出だした(種分化)。種分化を引き起こす動因は、突然変異と自然選択である。たとえばどうしてあんなに首の長いキリンという動物が生まれたのか考えてみよう(どうもたとえが子供みたいだな・・・)。キリンの祖先は鹿に良く似たヱビスという動物だったとする。ヱビスの子供に、飛びぬけて背が高く首の長いものが生まれたとしよう。彼はほかの仲間が届かない高いところにある木の葉も食べられるので、厳しい環境下でも生存して子孫を残す確率が少し高いだろう。この子孫同士が交配して、同じことを繰り返すうちに少し首の長いヱビスの一亜種がうまれ、やがてキリンという別の種として枝分かれしてゆく。

 ヱビスからキリンが分家するこのストーリーはいかにも怪しい。突然変異は稀な現象だから、初代が交配する相手はほとんど確実に首の長くないヱビスだろう。その結果うまれた子孫が少し長い首をもっていたとしても、その交配相手がほとんど確実に普通の首のヱビスだとしたら、同じことを繰り返すうちに、初代の持っていた性質はどんどん薄められ集団の中に埋没してしまうであろう。

 ダーウィンが教育を受けたころの遺伝に関する考え方は、両方の親の性質が混ぜ合わされて中間が子に伝わるという「融合遺伝」だった。ちょうど2色のペンキを混ぜ合わせるようなものだ。融合遺伝のもとでは、ダーウィンの説は全く成り立たないということを最初に指摘したのは、フリーミング・ジェンキンという電気技術者だった。ジェンキンは1867年に、「種の起源」の批判という形で雑誌に論文を発表した。彼は技術者らしく、数学的なモデルを立てて、多数のメンバーからなる集団の中に、生存にどれほど有利な性質を持った個体が生まれても、数の差に圧倒されて新しい変種を生み出すことにはならないことを示した。

 ダーウィンは、「種の起源」を執筆した時点では、この問題をそれほど深刻には考えていなかったようだ。しかし、ジェンキンの批判を知り、衝撃を受ける。どうして1個体の突然変異が種全体に影響を及ぼすのか?ダーウィンは当時の遺伝に関する常識の範囲内で、いろいろな説明を試みたようだが、最後に、パンゲン説という怪しげな理論を持ち出してしまった。

 

 この問題を解くカギは、「遺伝子」にある。遺伝のアトム(最小単位)としての遺伝子の存在を示唆するグレゴール・メンデルの画期的な論文は1865年に発表されている。えんどう豆の実験の意味するところは、遺伝というのはペンキを混ぜ合わせるようなものではなくて、二組のカードをシャッフルするようなものだということだ。融合遺伝とメンデル遺伝とでは突然変異が集団に及ぼす影響が全く異なることは簡単に示せる。

 ダーウィンはメンデルの研究を知らなかったのか?リヴィオ氏の調べたところでは、多分、知らなかったようだ。また、数学の苦手なダーウィンが仮にメンデルの実験を知っていたとしても、その重要性を見抜けたかどうか疑わしい。逆に、メンデルはダーウィンの仕事を知って影響を受けていた。それどころか、自分の遺伝理論がダーウィン理論の難点を解決することも気づいていたらしい。メンデルの書いたものの中にダーウィンの名前が現れない理由について、リヴィオ氏はメンデルがカトリック教会の司祭であった事実をほのめかしている。

 それゆえ、ダーウィンの進化論を支える柱は、突然変異と自然選択とメンデル遺伝(遺伝子)の3本だというのが正しいのではなかろうか?

 

 ダーウィンが遺伝の問題に深く悩まずに「種の起源」を発表したのは、しかし、ダーウィン自身にとっても人類にとってもラッキーだった。メンデルの業績は1900年に再発見されるまで忘れ去られていたのだから。

 この話から私たちが教訓を見出すとすれば、「あなたの研究で、すべてが明らかになっていなくても、分かったことだけで良いから発表しておきなさい」ということかも知れない。もしそれが重要な発見を含んでいれば、残りは誰かがやってくれるから。


                                          (Feb. 2017)

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