原稿料倍増計画

 最近、友人のT君と共著で某学会誌に解説記事を書いた。このレフェリーがたいへん厳しい方で、依頼原稿であるにも関わらず何度も書き直しをさせられ、初稿の提出から一年近くも経って、最近、ようやく会誌に掲載された。幸い評判は悪くないようだ。しかし、送られてきた学会誌を読み返してみて驚いたことに、同じ文章が2回繰り返されているところがある。要するに、かなり長い段落がそっくり重複して印刷されている。明らかなミスプリント。慌ててT君に知らせると
「ふむ、そそっかしい性格が丸出しですね」
と、いささか脱力気味である。厳しいレフェリーとのやり取りで精力を使い果たしてしまったらしい。

 気を取り直してもう一度読み返す。全く同じ文章が繰り返されるのは、さながら重厚なバッハのフーガを聞くがごとく、異様な迫力がないでもない(もう、やぶれかぶれ)。それよりも良いニュースは、この繰り返しのお陰で長さが少し伸び、刷り上がり5ページに収まるはずのところが6ページになったことだ。原稿料が増えるじゃありませんか!これは原稿料を稼ぐよいやり方だ。(註)

 日本の習慣では、著作物の原稿料は原稿用紙枚数または刷り上がりのページ数で算定される。そこで、多忙な流行作家の中には楽して原稿料を稼ぐための策をめぐらす人物が現れる。そのような策の一つは、やたらと改行しまくることだ。原則、1センテンス1段落である。こんな具合になる。

  吾輩は犬である。

  名前は・・・。

  名前はまだ、ない。

  覚えているのは、ペットショップのケージの中。

  吾輩は兄弟達と一緒にクンクン鳴いていた。

  その時、いきなり一本の腕が伸びて、吾輩の首根っこを摘み上げた。

  「・・・」

  覗き込んだのは平たい顔である。

  眼鏡をかけている。

  煙草くさい息を吹きかける。

  これがサラリーマンという生き物であった。

  「・・・」

  サラリーマン氏は吾輩をじっと見つめている。

  「・・・」

  何を考えているのか分からん。

  

            (夏目落石「吾輩は犬である」より)

 こういった作家の小説は、紙面がスカスカで、読者はほとんど余白を読まされているような気分になる。それでも読ませてしまうところが腕というべきか。

 日本人ではないが、アガサ・クリスティーの晩年のある作品の中に、本筋とは関係のないエピソードが延々と繰り返され、話が前に進まなくなってしまう所がある。これなどは、原稿料稼ぎなのか、単にボケただけなのか分からないので、読んでいて少しヒヤリとする。

 完全にボケた結果、堂々と原稿料を稼いでいたのが、最晩年の武者小路実篤だ。


  僕は人間は信じあうことが大切だと思う。信じた結果、裏切られることもある。

  しかし、信じあうことは大切だ。人を信じられない人生は貧しい人生になる。

  だから、僕は人間は信じあうことが大切だと思う。信じた結果、裏切られること

  があっても、信じあうことは大切だ。人を信じられない人生は貧しい人生だ。

  だから僕は人間は信じあうことが大切だと思う。信じた結果、裏切られること

  があっても、人を信じることは大切だ。


といったような文章を書いていましたな、この人は。実篤の文体は、もともと少し緩いところに特徴があって、若い時に書いた小説ではそれが平明で自由闊達な印象を与えていた。私も若い頃、実篤の小説を読んで救われた気持ちになったことがある。だから懐かしい作家であり、感謝もしているのだが・・・。

 ひどいミスプリントをしたことに狼狽して、変なことを書いてしまったようだ。私も気をつけないと。

(註)断っておくが、学会誌の原稿料など雀の涙ほどもありません。それに規定の枚数を越えた分はカットされます。

 

                              (Oct. 2006)

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