Great Smoky Dragon
 
 量子力学的現象は観測されるまで現象ではない。

 量子力学の「奇妙さ」をどこに感じるかは、人それぞれかも知れない。不確定性原理とか、とびとびのエネルギー値だとか、重ね合わせの原理だとか、本質的に確率に支配されているとか、遠く離れた二つの物体同士の相関とか、量子力学は日常生活の感覚からは容易には受け入れがたい論理に満ちている。しかし私は、これらの「奇妙さ」全ての根底にある原理として上に掲げたドグマに、もっとも強く奇妙さを感じる。
 
「量子力学的現象は観測されるまで現象ではない」というのはジョン・ホイーラーの言葉である。ホイーラーは、また、量子力学的現象を Great Smoky Dragon と表現した。尻尾(初期状態)と頭(観測結果)は見えているが、胴体はもくもくした煙に包まれている竜のイラストを見た人もいるだろう。

 このドグマから、直観に反する実験をいくらでも考案することができる。たとえば、物質に外部から操作を加えて状態を変え、それを「観測」する前に2番目の操作をほどこして、現象そのものを何の痕跡も残さず消してしまうこともできる。また、二つの異なる時間発展の経路を辿っている粒子(重ね合わせの状態!)に操作をほどこして、経路間の干渉により観測結果を変えることもできる。しかも、この操作を加えるか加えないかの判断を、粒子の状態を観測する直前まで遅らせることができるので、まるで粒子の辿る運命を、時間を遡って決定しているかのような印象を受ける。これは遅延選択実験(delayed choice experiment)と呼ばれている。
 
 ホイーラーは、遅延選択を宇宙スケールに拡大した思考実験を提案して、この奇妙さを強調してみせた。何億光年も離れた銀河から出た光が、二つの異なる経路を辿って地球にやってくることがある(重力レンズ効果)。このとき、光の観測方法の設定の仕方により、異なる経路の重ね合わせ状態で観測するか(干渉が起きる。光は波だ!)、あるいはどちらか一方の経路を選んでやってくるという観測をするか(干渉は起きない。光は粒子だ!)を選ぶことで、光の過去数億年間の歴史をいま決定できるというのである。

 Smoky Dragonの煙に隠れた部分を表現するのが波動関数であり、波動関数の時間発展はシュレーディンガー方程式で記述される。波動関数は「見ていない(観測していない)」ときの粒子の振る舞いを表わしている何物かではあるが、一体それが何なのか、誰もうまく言えない。そもそも「見ていない」ときに粒子がどこにいるのか、誰も知らないし、そんなことは議論してはいけないことになっている。見ていないとき、粒子はイデアの世界にいるのだ、と言う人もいる。破れかぶれだ。

  皆さんは、物理学者をつかまえて
「波動関数って何ですか?」
と質問してみるとよい。もし、彼が良心的で深く考える科学者だったら、きっと
「カクリツシンプクがなんたらかんたら・・・」
と口ごもった挙句
「私にもよく分かりません」
と肩をすくめるだろう。

 それでは「観測」とは何か?これもかなり厄介な問題である。だから、多くの物理学者は、見て見ないふり、普段はあまり考えないことにしている。

 とにかく、観測に用いるのは普通の大きさの実験装置であり、その結果を記録するのは普通の大きさの人間や機械であって、これらは量子力学には従わない。(重ね合わせ状態の人間は、異常心理学の世界には居そうだが・・・) だから、量子の世界と日常の世界を結びつける仕組みが必要になる。

 そこでいわゆる「コペンハーゲン解釈」というもう一つのドグマの出番になる。

(1)見ていないときの粒子(でも何でもいいが)の振る舞いは、波動関数とシュレーディンガー方程式で記述される。
(2)観測した瞬間、粒子は「突然」、波動関数が許す範囲のどれかの状態(場所や速度など)の一つにジャンプする。その出現確率は波動関数の絶対値の2乗に比例する。
ということになっている。つまり、量子力学は運動法則(1)だけでは不完全で、観測に関する規則(2)とセットになって初めて機能するというわけである。日常生活の大きさの世界(マクロの世界)と、原子や電子の世界(ミクロの世界)との間には、断絶があるという信念が背後にある。

 コペンハーゲン解釈はえらく力を持っていて、反対意見を唱える人はケチョンケチョンに批判されるのが常であった。なぜか観測の問題になると、ひどく熱くなる少数の研究者がいるのだ。

  しかし、最近になってミクロとマクロの中間のサイズの世界(メゾの世界)を実験で調べることができるようになり、また、10のマイナス15乗秒という程度の超短時間の出来事を調べる技術も進み、コペンハーゲン解釈も少し、いや大いにぐらついている。実際、世界を記述するにはシュレーディンガー方程式一本でよいのだ、というほうがすっきりしている。ミクロとマクロの違いは制御できる自由度の大きさの違いに過ぎないというわけだ。

 ところで、「観測」するのは実験装置ばかりではなくて、「環境」も 対象を乱すことで観測する。環境というのは、制御できないたくさんの変数からなる自由度である。真空中に浮かんだ原子や分子は、ほとんど環境の影響を受けない。これに対し固体中には環境のもとになる自由度がうようよいるのだ。

  この影響を問題にする理論家もいてこれを「環境問題」と呼んでいる。これを聞いて、物理学者はエコロジーに熱心だ、などと早とちりしてはいけない。

 とにかく、原子・分子の世界と、固体の世界とではかなり様子が異なる。それに応じて、それを研究している研究者のセンスも全く違ってくる。その著しい例を、私は近頃、経験した。

 最近、 分子科学研究所の大森賢治教授のグループが、真空中の分子を対象にして、とても面白い一連の研究成果を発表している。分子が基底状態と励起状態の二つのエネルギー状態を持つとき、光によって基底状態にいた電子を励起状態に上げることができる。これを光吸収遷移という。一連の研究の出発点となった論文(Phys. Rev. Lett. 91, 243003 (2003))で、 大森教授らは10のマイナス18乗秒(アト秒)の精度で時間間隔を制御された二つの光パルスを続けざまに分子(正確には分子の集団)に照射した後、励起状態にどれほどの電子が遷移しているかを「観測」した。その結果、励起状態の存在確率が、パルス間の時間間隔に対して一定の周期で、0と最大値の間を振動することを見出した。

  確率が0ということは、何も無かったことと同じである。言いかえると、最初の光パルスがしたことを、2番目のパルスが打ち消してしまったのである。また、存在確率が最大になったとき、その大きさは光パルスが1回だけ照射されたときの2倍ではなく4倍になっていた。


 この実験の話を、固体物理を専門にやっている研究者が聞くと、しばしば、結果の受け入れに大きな抵抗を示すことに私は気づいた。中には
「何で同じ分子が2回も光を吸収できるんだ!」
と青筋をたてて怒る人がいる。しかも、かなりのベテランと思われている研究者の中にいる。 このことが私にはむしろ驚きだった。

 ここまで読んでくださった方は、この実験で何が行われているか、もう大体はお分かりであろう。

 そう、
光吸収は観測されるまで光吸収ではないのだ。

 この後、大森グループでは、電子の励起と分子内振動とが絡んだ数々の美しい現象を観測し、いま、分子と固体の双方で、Great Smoky Dragon の正体を捕まえようとする計画を立てている。

                             (Nov. 2010)

目次に戻る