ディフェンス

 この3月、1週間ほどアウグスブルク大学物理学研究所のヘンギ教授のところに滞在してきた。1年間務めた学科主任(英語名 Faculty Servant)の雑務でストレスがたまり、この頃には気持ちが荒んで、やたらと怒りっぽくなっているのが自分でも分っていた。だから短期とはいえ海外逃亡して物理に集中できたのはうれしかった。

 アウグスブルクはミュンヘンから特急列車で40分足らずの所にある古い町である。通りに面して独特のファサードを持った家々が立ち並び、美しい景観を作っている。ミュンヘンですら大都会すぎて少し冷たいと感じさせるほどの、暮らしよさそうな中規模都市だ。前回、訪れたときは夏の盛りだったが、今はまだ道路に雪が残っていてとても寒い。観光客などぜんぜん見かけない。

 宿舎は町で最も古い大聖堂(ドーム)の裏手のホテルに用意してくれた。このドームはアウグスブルクで私が最も好きな建物である。その無骨ともいえる素朴な美しさと素晴らしい量感に満ちた姿は、何度見ても見飽きない。ホテルの部屋からも、赤い大屋根と二つの青い塔が見える。毎朝、ドームの横を通って町の中心部にある停留所まで歩き、路面電車で郊外の大学まで出勤した。夜は明かりに照らされたドームを見ながらホテルに帰った。こういう時、理由の分からない幸福感が沸き上がってくる。

 早春のアウグスブルク



 今回の出張の目的は、私と東大のSさん、それにヘンギ先生のグループのジョイントでやっているある共同研究の詰めと今後の展開を議論することである。ヘンギグループでは、オランダから来ているポスドクのW君が実働部隊の中心である。SさんとW君が、あるモデルの厳密解を見つけたのだけれど、これが私たち(私と阪大のN君)が以前にやった研究結果と少し合わない所がある。どうも微妙な条件の違いが効いているのではないかと私は言うのだがW君は意気軒昂である。いずれにせよ、これは良い問題だ!

 ドイツの大学の正教授は日本の大学教授とは比べ物にならないくらいエライ。ヘンギ先生も、研究所の実験と理論の両部門に大きな影響力を及ぼしているらしい。しかし、彼は学内政治にうつつを抜かすよりは、世界中を飛び回って歩くことを好んでいるようだ。実際、彼の性格はどう見ても政治家向きではないように思う。

 ヘンギグループには世界各地から集まった多くのポスドクや講師・助教授クラスの研究者がいる。みんなとても真面目。お昼はそろって大学の食堂(メンサという)に出かける。会話は英語とドイツ語を自由に切り替えてやっている。少子化問題や就職難の話が多い。外国の若者と話していつも感じることは、日本の若者と比較して、彼らが政治経済や文化の話をとても真面目に議論することだ。これが日本の大学だったら、たとえ政治向きの話になっても、誰かが茶化してそれでお終いになるだろう。私たちは、何かを議論する習慣がまだ十分身についていないようだ。

 ある朝、W君が嬉しそうに「今日はディフェンスとパーティがある」と言う。聞いてみるとディフェンスというのは、博士学位論文の審査のことらしい。文字どおり、審査員の攻撃から研究を守り、自分自身の能力の高さを証明して見せるのである。それを通過して初めて一人前の博士と認められ、晴れのパーティで皆の祝福を受ける。私もオブザーバーとして出席させてもらった。

 今日、論文審査を受けるのはポーランドから来ているL君である。セミナー室の最前列には5人の審査員が並んでいる。真ん中にいるのは勿論、ヘンギ先生。ポーランドのカトゥイッツ大学から、L君の指導教官の先生も来ている。後ろの方には、L君の両親も座っている。朴訥そうな普通の老夫婦である。さらに、廊下ではL君の細君がよちよち歩きの子供を抱えてうろうろしている。大変な騒ぎ。

 論文発表は英語で30分。テーマは確率共鳴に関係した問題である。その後の質議応答がこれも英語でなんと1時間半も続いたのはさすがに「ディフェンス」である。ヘンギ先生が細かい質問を繰り出し何度も答えさせる。議論がだんだん妙な方向へ逸れていって、ついには相対性理論の話になった。(どうしてそうなったのか、私にはもう思い出せない。)「特殊相対性理論の基本原理を二つ言ってみろ」というヘンギ先生の無茶苦茶とも思える質問も何とか切り抜けて、L君は無事ディフェンスに成功した。ドイツで博士になるのも大変だ。

 その後は研究所のロビーでパーティになった。ヘンギ先生は
「これからバルセロナに行って、名誉博士の称号をもらうセレモニーに出るのだ」
と言って、消えてしまった。まったく忙しい人だ。

 パーティ会場はL君の奥さんや秘書の女性達が準備してくれた。手作りのケーキやソーセージなどの料理が並び、ワインやビールやウオトカもふんだんに用意されている。それでも、乱痴気騒ぎになることもなく、皆さん、楽しそうに、しかし大人しく飲み食いしている。L君の御両親もニコニコ笑って黙って座っている。ポーランド語しかしゃべれないようだ。W君はさっきから同僚と何か議論している。L君は、子供の両手を持ち上げて、操り人形みたいにロビー中を歩き回らせている。

 私はワインとウオトカが効いてきて、少し眠くなった。ここは何処だ?そうかドイツか。L君、博士になっても食っていけるかどうか分からんよ。それなのに子供まで作ってしまって、いいのかなあ・・・。ありゃ、私もそうだった!

 

                               (Apr. 2006)

目次に戻る