聴覚問題

芥川賞作家の五味康祐氏は、昭和30年代〜40年代の売れっ子作家だった。彼はまたオーディオマニアで、クラシック音楽の評論も書いていたが、実は難聴だった。その五味康祐氏が「西方の音」という評論集の中で、耳の遠い中年男 -つまり自分- の悲哀を語っている。それは男女の機微に関わる話である。女性が男性に思いの丈を明かす時、それはいつもひそやかな囁きで告げられる。男がそれを聞き取ることができずに聞き返したら、彼女はもう二度とその言葉を語ってはくれない、という。私が「西方の音」を読んだのはまだ若い頃だったが、さもありなんと思ったし、男の哀れさが身につまされるようでもあった。

 私はこれまでに、自分の聴覚に異状を感じたことはなかった。むしろ音に対しては敏感すぎる方だったろう。しかし、近頃、少し不安を覚えるようになった。加齢による難聴の始まりかも知れない。実は妻も最近、耳が怪しくなってきた。(初めの頃は聞こえないふりをしているのかと思った。)妻は無口な人で、かつ小声である。わたしは早口のくせに滑舌が悪く、奥歯が2本ないために(?)余計に言葉が聞き取り難いようだ。そういう夫婦が、一日中一緒にいたらどういうことになるか?

 男女の機微どころか、意志の疎通が正しくできているのかどうかすら怪しくなる。大抵のことは、分かったことにしていい加減に済ませているが、時には大声で聞き返したり、怒鳴ったりもする。怒鳴るのはいつも私だが。決して喧嘩をしているわけではないのに、気持ちがささくれ立ってくる。

 同居している母親も、難聴が進み最近はほとんど聞こえていないようだ。歳をとると、記憶力の減退よりも難聴のほうが大きな問題なのである。普通に会話ができなくなると、家族の中でも孤立してしまう。話しかける方も余分のエネルギーを費やすので、話すのが億劫になるからだ。或る時、母親に大声で話しかけていたら、「そんなに大きな声を出さないで、落ち着いてゆっくり話しなさい」と面と向かって諭されてガックリきた。

 というわけで、いま我が家では「聴覚問題」が深刻になりつつあるのだ。歳をとると、こういうことで生活から潤いが欠けてくるのは悲しい。若い方々には興味のない話だろうが、いつか思い当たることもあるかも知れない。

最後に私たち夫婦の楽しい未来予想図をひとつ。

縁側で日向ぼっこをしている老夫婦の会話。

爺:「婆さんや、あそこにやって来るのは隣村の吾作ではねえか?」

婆:「なに言うだ爺さん、あれは隣村の吾作だよ」

爺:「あれまあ、わしはてっきり隣村の吾作かと思うたよ」


                                        (Feb. 2019)

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