日が暮れるまで遊び続けよう

 多分、土曜日のことだったろうと思う。小学生だった私は学校から帰り、祖父母の家の茶の間で、お膳に向って昼飯を食べていた。すると家の前の道から、近所の遊び仲間の歓声が聞こえてきた。先に昼ごはんを終えて遊び始めたようだ。今日は何をして遊ぶのだろう。それを思うとわくわくしてきて、居ても立ってもいられなくなった。私は箸も茶碗も投げ出してワッと叫んで飛び出したくなるのをやっとこらえたことを今でも覚えている。

 本当に、あのころは来る日も来る日も遊び呆けていた。日暮れまで遊び、夜は疲れ果てて眠った。変な話だが、ある時、子供心に「もうこれ以上は遊べない」と思ったことも覚えている。いったい何があんなに面白かったのだろうか。

 

 きわめて私的な報告で恐縮だが、今年の3月に、お世話になっていたあるプロジェクトが終了した。2008年3月に、大阪府立大学を定年退職した後、立て続けに二つの大きなプロジェクトから声をかけて頂き、仕事を続けることができた。大変ありがたいことだと思う。

 今年の4月以降は週に1日の勤務形態になった。出勤日のほかの日は、自宅で仕事をしている。今はインターネットへのアクセス環境とPCがあれば、理論家はどこででも仕事ができるのだ(ただし頂く給料は週給一日分です)。よい時代になったと言うべきか、いつまでも仕事がやめられない困った時代と言うべきか。 

 一応、現在の生活実態をご報告すると、出勤の無い日は、おおむね家の二階にある仕事場に立て籠もって論文を書いたり、数値計算をしたりしている。計算のためにマセマティカを覚えた。マセマティカは賢い計算言語だが、大変クセが強く使いにくいところがある。頭が良すぎて使えない人間のようだ。 

 使っているのはノートPCなので、大きな計算を投げ込むと結果が出るまでに30分以上かかることもある。その間に家の周囲の散歩(見回りと称している)に出る。公園に行くと近所の爺さんたちがベンチを占拠していつも何か話している。あまり楽しそうには見えないので、なるべくそちらへは行かないようにしている。一回りして部屋に戻ると、パソコンのモニターに結果が出ている。パソコンが猛烈に熱くなっているので、酷使していることが分かる。 

 理論屋が仕事をしていく上で無くてはならないものがもう一つある。それは実験家を含む研究者との接触と情報交換である。そのために、なるべく月に1〜2回は出張をするようにしている。国外へはずっと年に1〜2回のペースで出かけている。 

 

 東北大学と大阪府立大学で正規の教員として勤めていた間も、楽しく仕事をさせて頂いたと思う。仕事というのは学生や院生の教育と研究指導であるが、どうやら家族全員、私が毎日、遊んで暮らしていると思っていたふしがある。これでも苦労を耐え忍んで家族を養ってきたつもりだが、全然そうは見えなかったらしい。研究が面白かったからかもしれない。

 事情があって、助手の時からボスといえる人が居なかった。博士課程で指導を受けた先生以外には、誰の影響も受けなかったし、誰の子分にもならなかった。研究者としては、私は季節外れのテーマばかり勝手にやってきた。ときどきヒットらしきものも打てたようだが、困ったことに、新しい研究というのは後にならないとヒットだったと分からないことが多いのだ。

 今の若手研究者を見ていると、皆さん優秀な上にトレンドに敏感で感心する。これは特に海外で頑張っている若手研究者について言える。強力なボスの率いるグループに入って、任期内に頭角を現さなければいけない。とても私にはこの時代には生き残っては来られなかっただろうと思う。

 研究者という職業がそもそも職業として変則的(やくざ的ともいう(註))な上に、私個人の 経歴が行き当たりばったりの積み重ねだったので、若い方々に何も参考になることは申し上げられない。だから自分勝手な決意表明でこの駄文を終わらせていただく。

 私はまだまだ遊び足りない。遊ぶにもエネルギーが要る。私は日が暮れるまで遊び続けたいのだ。

 

(註)T大学のM先生によると「研究者は道を極めるから極道」なのだそうだ。



                                        (Oct. 2016)

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