芥川

 研究者なら分ってもらえると思うが、何か一つのアイディアに集中すると、だんだんクレージーな心理状態になって来る。理論の場合は、イメージと数式の間を行ったり来たりして考えるのだが、問題の焦点が煮詰まってくると、もう上の空で、寝ても覚めても考えている。私の場合は、半年に1回ぐらいの割りでそんな状態になる。そうなると、「チキショー、こいつが解けるといいんだが」などとと独り言を言いながら部屋の中を歩き回ったりしている。一人の時はいいが、町なかでこういう状態になると危ない。

 今、夢中になって考えている問題でLie代数の知識が必要になった。そこで研究室を出て大学の図書館に本を借りに行く事にした。頭がぼうっとしている。丁度、秋の学園祭の最中で、キャンパスの中はお祭り気分でにぎわっている。

 目的の本を借り出して、図書館のロビーを歩いていると、大学所蔵本の特別展示の最中だった。我が大学は、最近、女子大と合併して女子学生の数と文学関係の資料が増えたのである。ひどく得した気分だ。もちろん、文学資料の話である。展示ケースの中には、夏目漱石の書簡とか「猿蓑」の初期の版本とか面白いものが並んでいる。

 その中に「伊勢物語」の絵入りの版本があった。絵の中では男が川のほとりで女を背負って立っている。いうまでもなく「芥川」の段である。「源氏物語」はとうとう読み通すことができなかったけれど、「伊勢」は何度か読んでいる。それぞれの話が短いのが良い。その中でもこれは印象の深い話である。なにしろ天皇の許婚者を盗んで駆け落ちしてしまったのだから歴史に残るスキャンダルとなった。
 女(二条の后)は深窓の令嬢だから、草の葉に夜露が降りて光っているのを見て無邪気に
「あれは何?」
と男(在原業平)に尋ねるが、男は追っ手から逃れるのに必死で答えてやる余裕もない。やがて鬼の棲む家とも知らず、あばら家に女を隠し、戸口で弓矢を背負って見張っているが、雷鳴の轟く中、女は鬼に食われてしまう。このあたりの描写は簡潔そのもので短編小説のお手本みたいだ。

 後世の日本人はこの話をよほど好んだようで、能にもなっているし絵の題材にもなっている。
「やはやはと重みのかかる芥川」
などという古川柳もある。背負われているのがお姫さまだから「やはやはと」である。三島由紀夫の「春の雪」は、多分、この話を下敷きにしているのではないかと思う。こちらは死ぬのは男だけれど。

 本を抱えて図書館を出ると、秋晴れのよい天気だ。鬼が出てもへーちゃらそうな現代の姫君たちがボーイフレンドと闊歩している。私は夢から覚めたような気分で研究室に戻った。

                                  (Nov. 2005)

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