赤羽線

 埼京線の池袋・板橋・十条・赤羽の間を「赤羽線」という。「埼京線」は運行系統の呼称であって、実は赤羽線の方が正式の路線名なのである。

  山手線が環状線になる以前は、赤羽・新宿・品川を結ぶ線が山手線の本線だった、という衝撃の事実がある。1925年(大正14年)に山手線環状化が完成した後、赤羽線は池袋と赤羽の間を往復運動する長閑な支線の地位に甘んじてきた。川越線との一体運行が開始された1985年以降は単に「埼京線」と称されるようになっている。

 今回は、何の話がしたいのか、というと赤羽線沿線の街 池袋、板橋、十条、赤羽の比較文化論をやりたいのである。東京の東北部に在住の人以外にとっては、何の興味もない超ローカルな話になるかと危惧される。関係者以外は今のうちに退室されるのがよいかもしれない。

 

 池袋は言うまでもなく大きな街である。そして田舎である。田園都市線すずかけ台にある研究室の秘書さんは、池袋の話になると
「いけぶくろ」
とつぶやき、私の顔を見て、なぜかクスリと笑うのである。そのたびに私の心は傷つく。だから、池袋の話題はこれくらいにして次に行こう。

 

 マンモス駅池袋の隣に板橋駅があるのが何とも凄い。何が凄いといってアナタ、私は板橋駅で人が乗り降りするのを、ほとんど見たことがない。というのは言い過ぎとしても、私自身は板橋駅で電車を降りたことは生涯に一度しかない。それは結婚したばかりの友人の新居を訪ねたときで、自分自身はまだ独身だった。

 カミさんは、日頃、北区の行政に不満一杯で、板橋区の方がリッチで、街がきれいで、行政も行き届いて・・・という意見だった。先日、用事で板橋駅を利用して帰ってきてからは、何も言わなくなった。

 なにも無い板橋駅西口(Wikipediaより)

 要するに、板橋駅は京浜東北線の上中里駅と並んで、東京都区内最後の秘境駅である。どちらの秘境駅も北区にあることは注目すべき事実かも知れない。板橋駅は、地番こそ板橋区板橋一丁目だが、板橋区、北区、豊島区の区境の3重臨界点上に位置していて、西口が板橋区、東口が北区、ホームは豊島区という分裂状態にある。近くに見どころは・・・・・・無いですね。新撰組の近藤勇が首を切られた刑場跡があるだけだ。昔は「板橋のガスタンク」があったが、今はもう無い。だから、急いで次に行こう。

 
 電車は早くも十条駅である。おらほが生まれて育った街だ(仙台弁が出てしまった)。写真を見ればわかるように、十条駅も田舎感満載の駅舎だ。過去数十年間、駅とその周辺の基本構造は変わっていない。変えたくても変えられないのである。その理由は十条銀座にあると私は思っている。

 十条銀座は、都内でも珍しい小売店だけでできた古い商店街である。私が幼少のころ、「銀座に行く」と言ったら、それは十条銀座のことだった。歴史が古いだけではなくて、やたらと繁盛している。近頃はやや人気が過熱気味で、遠くから買い物がてらの見物に来る物好きの人もいるくらいだ。安部総理大臣も見物に来た。こういう商店街の店主は概して保守的である。駅前再開発のプランは出るのだが、ことごとく潰されているようだ。

 駅の近くに私立大学が三つあるので、通学時間帯は狭いプラットホームが学生であふれかえる。危険なので駅を拡張しようにも周囲を商店と住宅でがっちり固められてしまっているので、身動きがとれない。

 空が広い十条駅(Wikipediaより)

 実はJRが焦っているのである。十条駅のプラットホームに立って、北と南に延びる線路を見ると、駅のすぐ両側からはるか彼方まで、合わせて6か所の踏切が見える。その踏切を、人や車や自転車がわたって行く。これでは電車のスピードを上げるわけにはいかないだろう。

 渋谷・新宿・池袋と飛ばしてきた埼京線は、赤羽線に入った途端に板橋・十条で各駅停車になり、急ブレーキをかけられたように減速する。これこそ赤羽線の歴史の重み、というか既得権の強みである。そこでJRとしては、赤羽線を高架化して急行は板橋・十条を通過させてしまおうという 悪だくみ 計画を持っているようだ。JR埼京線だって田園都市線のようにブッ飛ばしたいのである。駅前と駅舎の再開発はその計画と結びついているので、地元の住民は猛反対している。将来、この計画が動き始めたら、もちろん、私も先頭に立って、いや先頭に立つのはゴメンだが、断固反対するつもりだ。

 

 終点は赤羽である。赤羽は赤羽線4駅の中で、最も大きく変貌を遂げた。東北本線、高崎・宇都宮線、埼京線、京浜東北線、湘南新宿ラインの合流する駅である。立派な駅ビルの中には「エキュート赤羽」があって、こじゃれた店も入っている。昔を知る者にとっては驚くべき変身である。

 赤羽駅東口

 終戦後、間もなくのころ、赤羽は闇米の集散地として名をはせていた。お米が配給制だった当時、大勢の買い出し人が東北地方に違法な米の買い出しに出かけ、リュックサックをいっぱいに膨らませて、赤羽駅に帰ってきた。それを待ち構えていた取締りの警官に追いかけられ、逃げる時に線路上にまきちらしたお米の写真がアサヒグラフか何かに掲載されていたのを覚えている。私にとって、だから 赤羽=闇米 の連想は断ち切りがたいのである。

 「昔の赤羽」の刻印は、駅前にも隠しようもなく残っている。昭和レトロの「焼け跡闇市」を知りたかったら、赤羽駅東口の一番街に来ることをお奨めしたい。朝の九時からおおっぴらにお酒が飲める店がある。昔、軍需工場の夜勤明け労働者が飲みに寄ったのである。道路にはみ出たトロ函に腰かけて、おっさんがホッピーを飲んでいる。なにしろ小学校の校門を出て、子供の足で 5歩 3歩もあるけば、そこは居酒屋の入口である(いいのか、おい)。酒飲みならうれしくて相好を崩してしまいそうな街である。


 昼間から行列ができている有名店

というわけでなんだかコーフンしてきたが、気を落ち着かせて比較文化論に戻ろう。

 赤羽駅前を歩いている人の3割は埼玉県民じゃないかと私はにらんでいる。赤羽と埼玉県の間には荒川という一級河川があるのだが、膨張する埼玉はそんなバリアをモノともせずに押し寄せてくるのだ。すでに赤羽は埼玉県に実効支配されているという説もある。ところでAKBN48はその後どうなった?

 

 以上、まとめます。 マンモス繁華街池袋に近すぎたために、独自の展開を持てなかった何も無い街 板橋。古いなりに活気のある街ではあるが、もはや身動きが取れなくなっている 十条。ど○○から近代的ターミナル駅のある街に変身を遂げたが、焼け跡闇市の名残が懐かしい 赤羽。たった三つの駅を見るだけで赤羽線沿線の個性が分かるだろう。しかし、「赤羽線」は青春ラブソングの題名にはなりそうもない。



                                        (Dec. 2015)

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