挨拶について

 人はなぜ挨拶をするのだろう?「おはよう」、「こんにちは」、「さようなら」、「行ってきます」、「行ってらっしゃい」などなど、私たちは一日のうちに何度も挨拶の言葉を交わしている。これは世界共通の習慣で、挨拶の言葉をまったく持たない民族はない。当たり前のことのようにも思えるが、私たちは挨拶のやりとりをして、別に何かの情報交換を行っているわけではない。
 「もうかりまっか?」
 「ボチボチでんなー」
という浪花の挨拶だって、別に真剣にやりとりしているわけじゃない。それにも関わらず人はなぜ挨拶をするのか、少し考えてみると面白い。

 挨拶をするのは、仲間同士のコミュニケーションを円滑にして連帯感を高めるため?毎日をなごやかに過ごすため?いえいえ、人間が挨拶を交わすようになったのは、そんな生易しい理由ではありません。挨拶の真の目的は「私はあなたに敵意を持つ存在ではありません。だから攻撃しないでください」というメッセージを相手に送ることである(萱沼説)。その証拠に、互いに見ず知らずの人間同士が、山道ですれ違うときにも挨拶をするだろう。少なくとも目礼ぐらいは交わすだろう。このとき、二人が手に棍棒や槍を持っていたら、と想像すれば私の説の正しさが分かってもらえると思う。

 大昔から現代にいたるまで、人間にとって最も恐ろしい敵は猛獣でも毒蛇でもなくて、人間自身だった。実際、統計データを持っているわけではないが、太古以来、最も数多くの人間を殺してきたのは猛獣でも毒蛇でもなくて人間だったに違いない。挨拶は、そういう人間が根底に持っている敵意や攻撃性を和らげるために生まれた手段である。要するに無駄な殺し合いを避けるための知恵である。だから、親は子供が口をきけるようになったら、きっと挨拶の言葉を教えるのだ。

 朝のワイドショーで、生徒が荒れて経営も破綻寸前だったある私立高校を立て直した校長先生の話が紹介されていた。この校長先生が、まず取り組んだことは、教師も生徒も大きな声で挨拶を交わすという運動だった。今では学校の雰囲気もすっかり良くなり、県内有数の人気高校に生まれかわっているという。これは全く理に適ったことだ。

 驚くべきことに、挨拶のできない人がまれにいる。その人物にとっては、挨拶などは単なる面倒な形式にすぎないのかもしれない。あるいは照れくさいのかもしれない。しかし、挨拶をしない人は、いずれ挨拶をしてもらえなくなる。彼または彼女は、無意識のうちに敵意の種子を蒔いているのだ。気の毒なことである。やはり私たちは大きな声で挨拶をしたほうがいいだろう。



                                        (Nov. 2014)

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