Adventures in Baku

(1)アゼルバイジャンへ!

「アゼルバイジャンに行って来た」
と言ったら、T君は
「らくだは居ましたか?」
と尋ねた。断っておくがアゼルバイジャンにらくだは居ない。アラビアでも蒙古でもないんだから。

 アゼルバイジャンはカスピ海に面した人口830万人ほどの小国である。首都のバクーは石油産地として有名で、私ぐらいの年齢だと中学校の地理で必ず勉強しているはずだ。1991年、ソビエト連邦崩壊とともに独立宣言。しばらく政治的不安定が続いたがアリエフ前大統領の強権のもとに安定し、今は経済も発展に向かっている。言語はトルコ語の方言といえるアゼルバイジャン語であるが、ロシア語も普及しており、国民の多くはバイリンガルである。

 アゼルバイジャン科学アカデミーが今年、創立60周年を迎え、それを記念してバクーの物理学研究所で国際会議が開かれた。研究所の教授M先生が、そこに私を招待してくれたのである。日本からはもうひとり、実験家の I 先生も招待された。かくして私と I 先生は、M先生とその美しい奥さんの下へも置かぬもてなしを受けて、五日間の行動をともにすることとなったのである。


 仕事で行ったのだから、まず仕事の話をしておこう。国際会議 Fizika-2005 は物理学研究所で2005年6月7日から3日間開催された。内容は固体物理から素粒子理論、エネルギー問題までと多岐にわたっている。私は自分の仕事は単なる招待講演だと聞いていたのだが、出発直前にWebでプログラムを見たら基調講演の一番最初に上がっていたので慌てた。こんな具合で会議の運営はかなりおおらかなものだった。

 会議に先立ちセレモニーがあり、参加者全員が市内の墓地に向かった。独立時にソ連軍との間に争乱があり、その犠牲になった人々の記念墓地である。亡くなった人たちの写真が金属板に印刷された立派な墓碑が、整然と並んでいる。その顔の多くは若者である。名前と生年月日だけが書いてあるのは、死亡年月日は皆同じだからだという。肅然とする。私たちは無数に並んだ墓碑の間をゆっくり歩き、赤い薔薇の花をおもいおもいに選んだ墓に捧げた。

 基調講演では、最近、大学院生のM君とやっている赤外レーザーによる半導体バンド変調の話をした。驚いたのは英語の講演にロシア語の通訳がついたことである。1センテンスごとに翻訳されるので、予定していた内容の半分しか話せなかった。後で分ったことだが、若い世代は別にして、年輩者には相当のエライさんでも英語がまったく話せない人が多い。思うに、この国では長い間ロシア語が即、国際語だったのだろう。この一件だけでなく、人々は旧ソ連時代の古い体制のなごりから、何とか離脱しようと苦闘しているように思えた。

 他の人達の一般講演は、大部分がロシア語だったので、残念ながら私にはほとんど理解できなかった。それでも私は座長まで務めたのだ! こんな経験は初めてである。困ったことは、講演の最中にずるずるとディスカッションが始まってしまうこと(もちろんロシア語で)。それから、質問者が質問ではなくて演説を始めてしまうことである。そうすると、質問されたスピーカーが倍ぐらいの時間をかけて堂々たる反対演説を始める。私はロシア語は演説には実に適した言語だと、この時初めて気がついた。

 会議の合間に、M先生が研究所の中を案内してくれた。
「すべてを知って欲しいのです」
と言って、隅々まで隠さず見せてくれた。部屋に並んだあまりにも古い実験装置に、正直に言って痛ましい感じすら私は持った。STMもMBEもフェムト秒レーザーもない。
「reformationとreconstruction。全部これからです」
とM先生は言った。

 研究所のスタッフの方々も、熱心に自分達の研究について説明してくれた。しかし、これは、と思うような結果の多くは、彼らがアメリカや西欧や日本に出かけて行って得たデータのようである。彼ら熱意に燃えたこの国のエリート達が、アゼルバイジャンに物理学研究の土壌を培い、花を咲かせててくれることを祈りたい。バクーはランダウの出身地でもある。

 M先生は陽気で押し出しがよく、ハッタリの利く人である。I 先生と私はいつのまにか日本代表みたいな役目を負わされてしまった。I 先生と二人、M先生に伴われて研究所長室を表敬訪問したら、丁重なもてなしの後、帰り際には立派な額縁入りの絵まで贈呈されてしまった。この待遇は、国立大学で副学長まで務めたI 先生は当然としても、私はハッタリの片棒を担がされたような気がする。会議の最中に新聞社のカメラマンに写真を撮られたり、名刺を求められたりしたから、今頃は現地の新聞に「日本の代表的科学者2名が来訪」とでも書かれているかも知れない。

(2)バクーという町

 バクーとは、ペルシャ語で「風の町」を意味する。その名のとおりカスピ海を渡る風が絶えず町中を吹き巡っている。人口は130万人ほどで、カフカス地方最大の都市。バクー市内は、近代的なビルと、ベランダと中庭を備えた古いヨーロッパ風の建物と、現地の人が「スターリン様式」と自嘲気味によぶソ連時代の味気ない建造物が入り混じって建っている。キリスト教会のかわりにイスラム教のモスクが建っているところがヨーロッパの町と違うところだ。風を防ぐ目的か、市内には大きな樹木が立ち並び、われわれ日本人には馴染みやすい。背の高い桑の木にはちょうど黒い実がなっており、これは甘くて美味しい。

 城壁は子供達の遊び場

 市の一角に城壁で囲まれた旧市街がある。ここはユネスコの世界遺産にも登録されたバクー観光の中心である。旧市街は石造りの古い住居が立ち並び、その間を迷路のような小道が巡っている。シルバン・シャー朝の城やキャラバン・サライ(隊商宿)の跡が残り、現在も発掘が続けられている。バクーはシルクロードの中継点でもあり、東西交易の中心であった。そのため、インド商人のもたらしたインド的な文化の香りも残っている。「乙女の塔」とよばれる何のために建てたのか分からない石造りの塔があり、私たちも登った。屋上からは市内とカスピ海が一望できる。I 先生の説では、これは古代の灯台である。

 カスピ海とバクー市

 アゼルバイジャンの歴史と文化は複雑だ。古くは古代ローマ帝国の版図の東端に位置していたが、7世紀にはアラブの支配を受け、セルジュク・トルコ(高校の世界史が懐かしい)が興るとトルコ的イスラム化が進んだ。その後、イランからロシアに割譲され帝政ロシアに支配されたが、10月革命の混乱期に民族意識の高まりとともにアゼルバイジャン民主共和国として独立。しかし直ちに赤軍の侵攻により崩壊、ソビエト連邦に組み込まれ、複雑な歴史の最後の仕上げとして社会主義の刻印を押されたのである。

 バクーの町を歩くと、この歴史がそのまま層をなして積み重なっているような気がする。これは有史以来、長期にわたる異民族の支配を一度も受けたことがなく(古代の天皇は異民族だったと私は思うが)、海の向こうからやって来る様々な文化を受け入れながら、それを一つの独特の文化に熟成させてきた日本の場合の対極に位置する。日本の文化を何もかもが溶け合った「おじや」とすれば、アゼルバイジャンのそれはひとつひとつの素材が個性を主張する「ピラフ」である。どちらが優れているかというような問題ではなくて、そのような歴史と文化の中で生まれ育ち、暮らしている人々がいるということだ。世界的に見てもピラフ型文化の方が多いだろう。まあ、外国に出ると誰でもこういったことを考えるのですね。

 アゼルバイジャンの宗教はイスラム教だが、戒律はきわめて緩やかである。頭からかぶりものをしている女性にも、町ではあまり出会わなかった。海岸沿いのブールバールのベンチに座ったアベックのしていることも、日本と変わりない。M先生は、自分の根本にある宗教はゾロアスター教だと言う。ゾロアスター教(拝火教)はイスラム教より遥かに古い宗教である。アゼルバイジャンにおけるゾロアスター教とイスラム教の関係は、日本における自然神道と仏教の関係に似ているようで面白い。

(3)宴会

 毎晩のように、M先生御夫妻の設けたディナーに招待されて恐縮した。ディナーにはM先生の親族や友人達も同席して歓待して頂いた。アゼルバイジャンの人々は、家族や友人の絆が固く、客人に親切で、古い日本の良い伝統を見るようで懐かしい。宴席にはアゼルバイジャン語とロシア語しか分からない人(年輩者)、アゼルバイジャン語とロシア語と英語の分かる人(若い世代)、英語と日本語しか分からない人(私と I 先生)、アゼルバイジャン語とロシア語と英語と日本語の分かる人(M先生夫妻)とが入り混じり、ややこしいことになる。M先生が獅子奮迅の活躍で通訳してくれたが、ときどき混乱してアゼルバイジャン語とロシア語オンリーのグループに日本語でまくしたてたりした。

 イスラム国ではあるが、皆さんお酒は飲むので安心した。ぶどう酒は、私には少し甘過ぎる感じがするがウオトカはとてもうまい。うたげの最中に、突然、誰かが演説を始める。これは要するにその席にいる、あるいは遠くにいる誰かに対する献辞である。そして、「だれそれの為に」と皆で乾杯する。それが幾度も繰り返されるのである。遠い日本から来た友人のために、と私たちも盃を捧げて頂いた。そのうちに乾杯する相手が出尽くして、見当たらなくなると「猫のミーシャの為に」と猫まで引き合いに出して乾杯する。酒飲みの心情はどこも変わらない。

 ある夜、旧市街のキャラバン・サライの中庭にあるレストランで食事をした。大きなイチジクの木が生えている。奥の方で民族楽器を使った演奏をしていて、数人の男性が民族ダンスらしきものを踊っている。私らから見ると中央アジアあたりのダンスと区別がつかない。つぎにヘソ出しルックの薄い衣装を身に着けた女性ダンサーが出てきてベリーダンスを始めた。これはトルコ文化の香りがする。なかなかよろしい。そのうち、女性ダンサーが踊りながら客のテーブルの間を廻り始めた。お客さんが次々に、ダンサーのズボン(というか薄いパンタロン風パンツ)のゴムの所にお札を挟み込む。ダンサーは、おヘソの下あたりに沢山のお札を挟んで踊っている。ははあ、あれがベリーダンサーに対する正しい御祝儀の渡し方か、と感心して見ているとM先生の奥さんが
「カヤヌマセンセイも、触りたかったらああするのですよ」
とささやく。ダンサーが私たちのテーブルに近づいたとき、私は思わず財布からドル札を取り出しそうになった。

(4)運転マナー

 車の運転マナーは、ハッキリ言って大変悪い。市内に車が溢れ、猛烈なスピードで走り回っている。信号が極端に少ないので、交差点では車が合流することになるが、これが恐い。合流をためらっていると後ろから「早く行け」とクラクションを鳴らされ、さらに回り込んで来た車で2列にも3列にもなる。それが猛スピードで通り過ぎる車の流れに1台また1台と突入してゆくのである。見ているぶんにはハラハラ、ワクワクして面白いが。

 車線を示す白線は引かれているが、あまり守られていない。もしかしたら、白い線が引かれているのは、その上を走るためと考えているのかも知れない。この凄い車の流れを、歩行者が横切って渡って行く(なにしろ信号がほとんどないのです)。小さな子供の手を握った母親が高速道路を横切って行くのを見て、私は何度も目を閉じたくなった。

 信号はとても見にくい。そして、なぜか「赤」→「黄」→「青」の順序に変わる。「黄」で発進しないとまたクラクションを浴びせられる。この「黄」は一体何なんだ?

 車の運転はM先生がしてくれた。M先生は若い頃モスクワで暮らした。日本に居た時は大阪で6年暮らしている。だからM先生は、世界の3大乱暴運転都市、モスクワ、バクー、大阪で腕を磨いた猛者なのである。

 郊外に出ると舗装はあまりされていない。道路は広いがでこぼこの穴だらけ。M先生は、そこを巧みにかなりのスピードで走るのだが、我々の車を何台も後から追いこしていく。走れる場所が狭いので、対向車とすれ違う時は注意を要する。最後の瞬間まで互いに避けようとしない(できない)ので正面衝突しそうになる。暴走族のチキンレースみたいだ。

(5)赤い湖と燃える山

 宿舎は市内から40キロほど離れたカスピ海沿いの保養地に用意してくれた。市内のホテルはとても高いのである。市内へは、M先生や研究所のスタッフの方が、毎日車で送り迎えしてくれた。市内への途上で、不思議な光景を見た。赤色、というよりピンク色の湖である。岸の近くは雪が降ったように白い。白いのは塩。地元の人達が、掻き集めて塩の山を作っている。天然の塩田である。

 赤い湖

 ではなぜ赤いのか?私たちは、そこを通るたびに議論した。同乗していたアメリカ人の実験家は
「水の誘電率がそうなっておる」
と言う。あんたそれでも科学者か?

 これは赤色好塩菌というバクテリアのせいである。赤色好塩菌は、飽和状態の塩水の中だけで生きられる原始的な生命である。太古の地球には、このほかにも熱湯の中で生きるバクテリアだとか不思議な生命体がいたのである。私がなぜこんなことを知っていたかというと、かって務めていた大学で視物質の研究をしていた生物物理の先生がいて、その人の講演で聞いたことがあったからだ。私にはこんな些末なことを記憶に止めておく変な才能があるらしい。

 面白いことに、地元の人に聞いても、水の赤い理由は知らない。そもそも、バクー市の郊外に、こんな湖のあることすら知らない人が多い。もっと宣伝すればよい観光資源になるだろうに。

 ある晩、ディナーからホテルに帰る途中、M先生が、少し寄り道して燃える山を見て行こう、と言い出した。M先生はお酒を飲んでしまったので、研究所の同僚のR先生が車で送ってくれるのである。R先生は英語を話さない。

 市街地を離れ、R先生の古いボルガで暗い山道を登っていく。「少し寄り道」どころか相当な距離だ。途中で道が分からなくなると、向こうからやって来る車を止めて道を尋ねる。こんな真夜中なのに結構車がやってくるのが驚きだ。道を聞かれた方は、わざわざ車からおりてR先生やM先生となにやら大声で話している。こういうところは何となく大阪に似ている。みんなとても親切だ。何度か道に迷ったあげくようやくどこかに着いて、車から降ろされた。あいかわらず強い風が吹いている。

 燃える山の火

 ごつごつした岩のくぼみのような所にそれはあった。地面の裂け目から赤い火が吹き出し、ごうごうと燃えている。燃える山の正体は地中から噴き出す天然ガスである。この火は、一度も消えたことがないのだそうだ。バクー近辺にはこのような場所が他にもいくつかあるという。

 風の吹きすさぶ闇の中で燃えさかる火は、やはり神秘性を感じさせる。ゾロアスター教(拝火教)が生まれたのもこんな環境の中からだろう。みずからゾロアスターの徒を名乗るM先生はしごく御満悦である。ニーチェの「ツァラツストラ」はゾロアスターのことである。若い頃、ニーチェにかぶれたことがある私も、多少の感慨なきにしもあらずだった。

(6)さらばバクー

 アゼルバイジャン駐在日本大使の藤原さんという方は、日本とアゼルバイジャンとの親善交流に努められ、アリエフ現大統領を抜いてMan of the Yearに選ばれたこともあるという。現地語(正確にはトルコ語)も流暢に話される。だから現地の人は皆、日本人と藤原さんのことを知っている。私たちが、あちこちで暖かい歓迎を受けたのも、多少は藤原大使のおかげをこうむっているかも知れない。しかし日本国内では、このことは知られていないし、そもそもアゼルバイジャンのことを多くの人は知らない。

 アゼルバイジャンは隣国アルメニアとの領土問題や、政治の民主化要求、石油生産量の伸び悩みによる経済問題など多くの課題を抱えている。私はごく短い期間、限られた場所に滞在しただけだが、それでもこの国は発展の可能性が高いと感じた。国民(正確にはバクー市民)の意識が高く活力がある。政教分離が徹底しているのも他のイスラム教国に比べれば強みだ。(この際、偏見丸出しで言わせて頂くと、国民の幸福にとってイランやイラクの「聖職者」ほど有害な存在はない。)それにしては、中国などと比べて、日本のプレゼンスが少ないのが気になる。もっとこの国との関係を深めておいた方が、将来の国益にもつながるのではないだろうか。

 バクーを離れる日が来た。私の飛行機は朝の5時出発である。真夜中の2時半にM先生御夫妻と、M先生そっくりの弟さんがわざわざホテルに迎えに来て下さった。そして3人で空港まで同行し、私がチェックインカウンターを通り抜けるまで見送って下さった。ありがとう、何から何までお世話になりました。これからウイーン経由で日本まで22時間の旅である。

 

 

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