Hylleraasの仕事

 Egil Hylleraas(エギル・ヒルラース, 1898-1965)はノルウエイの理論物理学・化学者である。そのもっとも著名な業績は、ヘリウム原子のイオン化エネルギーを量子力学的に計算した研究である[1]。


 ヘリウム原子の電子1個をイオン化するに要するエネルギー(第1イオン化エネルギー)E1の実験値は24.58eVと求められていた。さらに二つ目の電子のイオン化エネルギー(第2イオン化エネルギー)E2は、核の電荷が水素原子の2倍であることからイオン化エネルギーは水素原子のそれの4倍、
 E2=13.6eV×4=54.4eV
と分かっている。従って、ヘリウム原子の基底状態エネルギーEg ( < 0 )を計算さえすれば
 |Eg|=E1+E2
の関係から
E1が計算できて、実験と比較できる。

 オスロ大学を卒業してカレッジの教師をしながら結晶構造学の研究をしていたHylleraasは、1926年、Bornに見出されてゲッチゲンに留学し、そこで出来たばかりの量子力学の勉強をした。そして当時の課題だったヘリウム原子の問題に取り組んだ。

 今日では、量子力学はSchrödingerの波動方程式論文(1926年)により完成したと考えられているが、当時の事情は少し異なるようだ。Schrödinger方程式は、確かに水素原子の束縛エネルギーを正しく与えはするが、これは古典力学にBohrの量子条件をツギハギした「前期量子論」によっても計算できるので、新しい量子力学の正しさの証明にはならない。そのためには、電子相関のある2電子系であるヘリウム原子のエネルギーをも、正しく与えることを示すことが必要と考えられていた。水素原子型の1s波動関数を用いて、電子間斥力の効果を摂動計算してみると、E1の値としては28eVという実験値から大きくかけ離れた数値(Born-Sommerfeld)しか得られないという事情があった。

 Hylleraasは、この問題を非摂動論的に攻略したのである。彼は対称性の考察から、まず自由度の数が6から3まで減らせることに気づいた(スピン1重項でS状態)。最初、この3自由度として、Fig.1に示すように原子核から2電子までの距離r1r2、そして2つの動径ベクトルの成す角度Θを選んだ。さらにラゲール多項式を基底とする波動関数の展開を行い、変分計算を行った。この結果、E1の値は大幅に実験値に近づいたが、なお0.12eVほどの食い違いがあって、Hylleraasを悩ませた。

 ブレークスルーが訪れたのは、1929年に彼が3番目の変数として、角度Θではなく、2電子間の距離r3を取ればよいことに気づいたときである。こうすれば電子相関の効果が直接表現できる。彼は6個の項を含む展開を用いてレーリー・リッツの変分計算を行い、実験値との違いがわずか0.01eVにまで縮まった[1]。これで量子力学の正しさと、その有効性が確証された。Hylleraasがこの時導入した座標系 (r1,r2,r3) は、Hylleraas座標系と呼ばれている。Hylleraasは、この後、H-イオンの安定性を計算で予言したり(ちょっとビックリ)、LiHその他の分子の電子状態計算を行っている。1929年のころに彼が使うことができた計算手段は、当初は手動式卓上計算器だったが、後には電動式計算器を使ったようだ。

 Hylleraas(1898年生)は、彼と同世代のHeisenberg(1901年生)やDirac(1902年生)のような超越的天才ではなかったが、数学的能力にすぐれ、良いセンスを持っていて、量子力学の基礎工事の最終段階に貢献することができた。同時に、量子力学的計算によって物質を理解するという現代物理・化学に続く道を拓いた。彼は謙虚な性格の持ち主だったようだ[2]。写真を見ると正直で不撓不屈のノルウエイ人といった面構えをしている。そして幸福だった子供時代の思い出を熱く語っていたという[3]。



 私がHylleraasの論文を知ったのは、東北大学の物理学科にいた1985年頃のことである。記憶に間違いが無ければ、国分町の飲み屋で実験グループの院生だったK君と同席した。今、I 先生の指導でこんな実験をやっています、というK君の話の中で、溶融法によりNaCl結晶中にCuClの微結晶ができるということを聞いた。NaClは透明なので、CuCl微結晶の励起子吸収スペクトルが測定できるが、そのピーク値がCuCl単結晶の吸収ピークからやや高エネルギー側にシフトしている。何か閉じ込めによる量子効果らしいと思われるが、それを解析する理論が無い、というので
「僕がやるよ」
と言って考え始めた。

 どうせ微結晶の形など分からないのだから、球にしておくのがいいだろう。有効質量近似はサイズがあまり小さいと破れるかも知れないが、そんな心配は後から考えることにしよう。閉じ込めのポテンシャルも無限大で、完全閉じ込めでいいだろう。と、簡単化してFig.2のような誘電体の球に閉じ込められた電子・正孔系のモデルを作った。あとは境界条件付きの2体問題を解くだけだ。

 ここで系の対称性を考えると、1電子1正孔問題と2電子問題の違いはあるが、ヘリウム原子の問題と同じであることに気付く。ヘリウムの問題については、シッフの教科書に何か書いてあったのを思い出してHylleraasの論文[1]にたどり着いた。とくにHylleraas座標の美しさは気に入ったので、これを用いてSchrödinger方程式を立てた。 
 Hylleraas座標系では、閉じ込めの条件は変数 r1, r2 の関数の境界条件として扱うことができる。一方、クーロン相互作用の効果は変数 r3だけの関数に取り込めばよい。まるでこの問題を解くために考案されたような座標系である。  

 まず簡単な変分計算をしてみた。ただし、ヘリウム原子の2電子問題との大きな違いは、斥力が引力に変わっているので、サイズ無限大の極限では電子・正孔の束縛状態、要するに1s励起子が最低状態になることだ。そこで、あらかじめその極限を正しく再現するように変分関数をとることが重要である。2粒子が束縛状態を持つというところは、ヘリウムの問題より面白い点だろう。

 計算は何の困難もなく進んで、変分パラメータ1個で微結晶サイズの小さい極限(強い閉じ込め)と大きい極限(弱い閉じ込め)の両極限を連続的にカバーする綺麗な結果が得られたので、短い論文を書いた[4]。その後、別の問題に興味を移していたが、世の中で「量子サイズ効果」が騒がれ出し、「量子ドット」なんぞという言葉まで流行り始めたので、2年ほど経ってから、もっと本格的な計算をした。このときは全対称状態の励起状態まで含む数値的に厳密と言える結果を得て、Physical Reviewに書いた[5]。この論文は私がPhysical Reviewに投稿した最初の論文である。そのさらに14年後、U氏との共同研究で、すべてのドットサイズ、すべての角運動量状態について数値的厳密解の定式化と計算をして、この問題を完全に解いた[6]。

 最近、Hylleraasの論文を調べる必要が生じて、30年ぶりにそれを読み返してみた。Web of Scienceで検索すると、論文[1]は2015年12月末現在では1208回引用され、今も毎年引用され続けている。Web of Scienceでは「その論文を引用している全ての論文」が網羅され、被引用回数の多い順に並べられている。そこでは私の1988年のPhys. Rev. 論文[5]が、加藤敏夫先生やレフディンの論文に続いて上から4番目にランクされている。そのことを知ってうれしくなったので、少し自慢させていただく。


[1] E. A. Hylleraas, Neue Berechnung der Energie des Heliums im Grundzustande, sowie des tiefsten Terms von Ortho-Helium, Z. Phys., 54, 347 (1929).
[2]
http://www.encyclopedia.com/doc/1G2-2830902107.html
[3] http://www.ctcc.no/about/hylleraas/
[4] Y. Kayanuma, Wannier Exciton in Microcrystals, Solid State Commun. 59, 405 (1986).

[5] Y. Kayanuma, Quantum Size Effects of Interacting Electrons and Holes in Semiconductor Microcrystals with Spherical Shape, Phys. Rev. B38, 9797 (1988).
[6] T. Uozumi and Y. Kayanuma, Excited States of an Electron-Hole Pair Confined in Spherical Quantum Dots and Their Optical Properties, Phys. Rev. B65, 165318 (2002).



                                          (Dec. 2015)

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