ディラックとボーア

 ニールス・ボーアの「量子論」が、本当の「量子力学」へと脱皮する突破口を開いたのはハイゼンベルクである。ディラックは、ハイゼンベルクに遅れることわずかにして、しかし、その強い影響を受けて物理学の主戦場に参戦した。

 ディラックは、ケンブリッジの大学院生のときに古典力学のポアッソン括弧式とハイゼンベルクの非可換物理量との類推に気づいた。さらに量子力学そのものの息を飲むような簡潔な定式化を行った。ディラックの教科書を読めばその凄さが分かる。ディラックによれば、ボルン・ハイゼンベルク・ヨルダンの「行列力学」もシュレーディンガーの「波動力学」も、上位に位置する抽象的な何ものかの「表現」に過ぎない。これは現在の私たちにとっては基本的な考え方となっている。波動関数ではなくてブラ < | とケット | > で考えることで、どれほど見通しがよくなっているか考えて頂きたい。量子力学はディラックによって、今ある形になったのである。

 1926年、これらの結果を博士論文(その題名も「量子力学」という!)にして学位をとると、同種粒子に対するパウリの排他原理を波動関数の反交換関係としてとらえ、統計性の問題を議論した。ここでもディラックは先行者フェルミにわずかに遅れたが、その業績はフェルミ・ディラック統計として残っている。これは量子力学を化学に応用するさきがけとなった。

 

 大学院修了の年、ディラックは奨学金を受けて大陸に留学した。ディラックはハイゼンベルクのいるゲッチンゲンを希望したが、指導教官のファウラーの助言に従い、ボーアのいるコペンハーゲンとゲッチンゲンのボルンの研究室を半年ずつ訪問することに同意した。

 この頃には、すでにディラックの名は広く知られていたが、同時に、その特異な性格や独特の研究スタイルも知れ渡っていた。およそポール・ディラックとニールス・ボーアほど対蹠的な研究スタイルの持ち主はいないだろう。ディラックは完全に一人で研究するタイプである。日常生活でも必要なこと以外、ほとんど喋らず、友人たちは「寡黙さ」を表す単位として「ディラック」を提案したという。ちなみに1ディラックとは1時間に1語だそうである[1]。
 
 これに対し、ボーアは常に話し相手を必要とした。ソクラテスのように対話によって真理に接近しようというタイプだった。若いころは論文の執筆に苦吟し、しかも、書き直せば書き直すほど悪くなった。有名なボーアの量子条件の論文も、いつまでたっても完成せず、見かねたラザフォードがボーアから奪い取るようにして投稿させたという。

 ボーアのもとに集まる若い研究者たちに、ボーアはよく口述筆記の相手をさせた。これは若者にとっては名誉なことではあったが、一種の苦行でもあったようだ。ボーアは正しい表現を求めて苦闘したが、その趣旨はますます曖昧模糊とした霧に包まれていくようだった。コペンハーゲンに着いたディラックも、さっそくボーアに呼び出され、この口述筆記の洗礼を受けたが
「私は学校ではいつも、どのように終えるのか自分ではっきりするまでは、文章を始めてはいけないと教えられました」
と言い放って、二人の共同作業はあっと言う間に終わりを迎えた。

 ディラックがボーアのもとで受けた恩恵は、生まれて初めて家庭的なぬくもりを知ったことではないだろうか。これはボーア家に呼ばれて、夫人のつくる手料理の食事をご馳走になるときや、開放的なボーアの研究所での研究者同士の付き合いの中で感じることができただろう。ディラックとボーアは、共同研究をすることなど、およそ考えられもしない組み合わせだったが、ディラックはボーアの家父長的な包容力の下で、のびのびと研究に没頭できたようだ。ディラックはここで「変換理論」を完成させ、シュレーディンガーの理論とハイゼンベルクの理論が完全に等価であることを示した。この論文の中でデルタ関数が導入された。また、電磁場の量子論を作り「場の量子論」を創始した。


 ディラックの生涯の業績のクライマックスは、1927年末のディラック方程式の発見にあると言っても異議を唱える人は少ないだろう。実際、当時の同世代の研究者たちは、この仕事によってディラックには完全に引き離されたと感じたという。また、ディラック自身も、この研究の最中には、興奮と緊張のあまり何度もパニック状態になったそうだ。ディラックは量子力学と特殊相対性理論との融合を図ることを考え、クライン・ゴルダン方程式を「因数分解する」という離れ業をやってのけた。その結果、方程式から現れたのは電子の持つ「スピン」の自由度だった。この方程式は、水素原子の基底状態と励起状態のエネルギー準位を、当時の測定精度の範囲内で正確に再現した。要するにスピン・軌道相互作用の値を決定した。

 ディラック方程式は、その大成功にもかかわらず、負エネルギーの解も持っていることが謎だった。ハイゼンベルクもディラック方程式に魅了されると同時に、不合理な負のエネルギー状態については激しく反発するという二律背反の感情に悩んだ。ディラックは、この矛盾をパウリの排他律と電子の詰まった「負エネルギー状態の海」のアイディアで回避し、逆にそこからの励起状態(抜けた穴)として正電荷を持った粒子の存在を予言した。当時は正電荷を持つ粒子としては陽子しか知られていなかったので、一時はこの抜けた穴が陽子なのだろうと考えたようだが、質量が電子とあまりに違いすぎることからオッペンハイマーらに強く否定された。

 この難問は1932年にアンダーソンが、宇宙線測定用の霧箱の中に、電子と同じ質量で逆符号の電荷をもつ粒子(陽電子)の飛跡を発見したことによって劇的な解決をみた。ディラック方程式が示していたのは、反粒子の存在と対生成の可能性だったのだ。この点こそが相対論的量子力学が非相対論的量子力学と決定的に異なるところである。素粒子物理学がここから始まった。

 ディラックはのちにこのあたりの事情を振り返り
「私の方程式は私自身より賢かった」
と述懐したと言われている。これが本当にディラックの言葉であるかどうかは分からないが、これ以上に彼の業績の本質をついたセリフは考えられないだろう。


 量子力学の創生期にボーアとディラックがいたことの意味を考えると面白い。ボーアは真理に対する天才的な直観力の持ち主ではあったが、基本的には「言葉で考える」人だったのだろう。彼にとって大切なのは式ではなくて、それの意味するところの「哲学」である。哲学は日常言語によってしか語れない。ボーアは量子力学を日常言語によって「理解」しようと悪戦苦闘した最初で最後の人だったように私には思われる。

 ディラックも、自然に対する恐ろしいほどの直観力を備えていたことは間違いないが、彼の場合、ひらめきは常に方程式の形で彼の頭脳を訪れたようだ。ボーアがハイゼンベルクの不確定性原理に対応して唱えた「相補性原理」を、ディラックは「方程式で書けない」という理由でまるで評価しなかった。今日、ボーアの論文を読むことは、歴史的な興味以上には、ほとんど意味がないだろうが、ディラックの論文は今でも新鮮であり刺激的である。私は1931年の論文 ‘Quantized Singularities in the Electromagnetic Field’ を読んで、どんな解説論文よりモノポールのことがよく分かった(ような気がする)。

 量子物理学の理論は、その後、ボーアではなくてディラックのスタイルで進展した。今日、最先端の物理は抽象数学と分かちがたいほどに強く結びついている。この傾向は高エネルギー物理だけでなく、物性物理においても変わらない。ディラックなら「式がすべてを物語っている」というかもしれない。しかし、量子力学はその根底に、いまも謎を湛えていると感じている人は多いだろう。ボーアが強く魅了され、かつ苦闘した「謎」。量子力学は不思議な学問である。

 

[1] ディラックに関する年譜や逸話については 「量子の海 ディラックの深淵」 (早川書房、グレアム・ファーメロ著、吉田三知世訳)を参考にさせて頂いた。

                                 (April 2015)

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